きのくに子どもの村通信より 学校づくりのこぼれ話(1)山の家の誕生
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
倒れるときは気をつけて
小学生合宿に参加していたN君とK君が、タタミの上でプロレスごっこをしていて倒れ、N君が鎖骨を骨折した。自宅の母親に電話をかけた。
堀 「…N君には自宅に帰ってもらったほうがいいですか。」
母 「本人に聞いてやっていただけませんか。」
堀 「どうする?家に帰る?」
N 「絶対に帰らない。」
堀 「帰らないといってますが…」
母 「ご迷惑をかけますが、最後までおいてやってください…」
次の小学生合宿のとき、N君の申し込み用紙を見てみんな吹き出した。その文面。
「プロレスをするときは、みんな、気をつけてたおれるようにしましょう。」
骨折して痛くても帰宅を拒否した少年(小3)、それを認めたお母さん。どちらも今はわが学園の大人だ。勝山の真生(なおお)君ときのくにの○ちゃんである。山の家が開設された頃の話だ。
山の家なべと肝だめし
山の家の合宿は、1985年の暮れから、92年のきのくにの開校まで、春、夏、冬の休みごとに一度の中断もなく続けられた。子どもにも大人にも大人気で、申し込み初日の正午に定員を超過したことも少なくない。
期間は4泊5日が多く、活動はバラエティに富んでいた。木工、おもちゃ作り、家づくり、食事づくり、お菓子づくり、柿狩りとミカン狩り、丹生川で水泳、高野山見学、虫取り、夜の散歩、紀の川の河原で早朝野球、カンけり、トランプなどなど。そして欠かせないのが山の家なべと肝だめしだ。これらは今も続いている。山の家なべは、いわゆる「やみ汁」なのだが、いやしくも山の家なべを名乗るからには、味噌仕立てでないといけないことになっている。
もう一つ大事なのは「何もない日」。たいてい4日目と決まっていて、子どもたちがそれぞれに何かを始め、いい雰囲気で盛り上がったのだ。
学校づくりの拠点として
山の家は、新しい学校をつくる会(以下「つくる会」)が最初に目をつけた建物ではない。つくる会は84年の9月に発足した。メンバーはニイル研究会の世話人など6名である。目標は正式に認可を受けた自由な私立小学校の創立だ。もちろんすぐに実現するわけはない。まず小学生の合宿を始めるための場所さがしから始まった(モデルは私が主宰していた大阪市大の小学生グループだ)。
いくつかの候補地があったが、いろいろな理由で話がまとまらなかった。粉河町の分校の施設は、タッチの差で大阪の帽子屋さんに持っていかれた。清水町の高台の民家は家主がためらった。これは今は自然体験施設として活用されている。同じ清水町の遠井(とい)はスイスのような風景の素敵な所だ。村の人は放置された分校の再利用のプランをたいそう喜んでくれた。教育委員会も関心を示したのだが、古いので責任を持って貸せない、といわれて頓挫した。
きのくにの開校後しばらくして訪れてみると、大がかりな改修が始まっていた。それから2、3年後、テレビニュースに何度も登場した。なんとこの元分校は、あのオウム真理教の道場として使われていたのだ。村の人も教育委員会も、きっと「あの時つくる会に貸しておけばよかった」と悔やんだにちがいない。
山の家の開設までに足を運んだ所は、ほかにも数か所ある。いちばん遠いのは兵庫県の山崎町だ。
木下義之さんとの出会い
山の家の利用は偶然から始まった。ある日、私とつくる会事務局の西山さんは、紀の川ぞいに候補地を求めて東へ進んで橋本まで来てしまった。そして通りがかった新聞配達の青年から教えてもらった不動産屋さんで、「国城山の中腹に空き家がある」と紹介されたのだ。
家主の木下義之さんは、橋本市議会議員で、元は農協の指導員として、柿づくりの振興などに尽くされた人だ。木下さんは、風呂場とそのための水タンク(2基)の新設、台所と飲料水タンクの改装、前庭のコンクリート舗装などで何百万円も使われたに違いない。
私たちは、山の家を拠点にして、学校づくりのアピールと、将来の学校運営のための自己訓練を始めた。学校の候補地探しも本格化した。山の家に隣接する田圃もその一つだ。和歌山県や大阪府だけでなく、鳥取や高知へも出かけたものだ。
木下さんには、廃校になった学校や間もなく休校になる学校をいくつか教えてもらった。彦谷もその中に入っていた。こんなわけで、木下さんは、学校づくりの大切な仲間の一人なのである。