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特集

インタビュー取材しました。

プレマ株式会 社新入社員インタビュー①
お客様サポート、プロモーション・セクション 上田 琉菜さんインタビュー

投稿日:

2022年4月、プレマ株式会社は3人の新入社員を迎えました。新卒(第二新卒)を採用するのは数年ぶりのこと。平均年齢が高めだった社内に、フレッシュな風を吹き込んでくれています。それぞれに経験も個性も違えば、これから携わる業務も三人三様。今号から3号連続で、新入社員のインタビューをお届けします。

お客様サポート、プロモーション・セクション
上田 琉菜 (うえた るな)

1999年生まれ、鳥取県鳥取市出身。畑に囲まれたのどかな環境で育つ。高校卒業後に京都の大学に進学。2018年に京都の北山にあった「プレマルシェ・ピッツェリア」でアルバイトを始める。京都三条会商店街に移転オープン後も「プレマルシェ・オルタナティブダイナー」でアルバイトを続け、2022年4月プレマ株式会社に入社。さまざまなお客さまと接することができる仕事にやりがいを見出している。食べ歩きと、好きなアーティストの舞台鑑賞が趣味。

 

 

 

「勉強ができる子」
でいるのが苦しい

——子ども時代は、どんな環境で育ちましたか。
実家は鳥取市内の、のどかな環境にあります。私は一人っ子で、両親が共働きだったので、幼少期は同居する祖母と二人で過ごすことが多かったです。よく畑作業について行って、近くで遊んでいたのを覚えています。周りに同年代の子がいなかったのもあって、いつも自然が遊び相手でしたね。よく公園で大勢の子どもたちが一緒に遊んでいるのを見かけますが、私にはそういう経験がないんです。

小学校入学前のある日、突然「試験を受けるから」と言われて、国立大学の付属小を受験しました。祖母がとても教育熱心な人だったので、合格したらとても喜んでいました。小中エスカレーター式で、父親はその中学校に通っていたので「おまえは小学校から入れてすごい」と。低学年のうちは電車で学校に通い、放課後は習い事に行くか、祖母と過ごしていましたが、3、4年生になると、友だちの家に遊びに行ったりして、同年代の友だちとも遊ぶようになりました。

——習い事はなにをしていたんですか。
小三から中二までピアノ。祖母の勧めで習っていました。あとは年中から高校まで英語、小学校高学年からは学習塾です。家族や親戚のなかでは「勉強のできる子」と見られていたと思います。当然のように、付属中に上がって、その後は県立高校のトップに進んでと、進路が決められていました。

——周囲に期待されていたんですね。上田 悪気はなく、勉強ができるんだから上に行けるでしょう、という感じでした。でも、私自身はあまり勉強が好きではなかったし、いい大学に行きたいという気持ちもなくて。高校に進学するときにかなり悩んで、当時打ち込んでいたテニスの強い商業高校に行きたいと言ったら猛反対されました。付属中の生徒の9割は県立高校のトップに進学するし、祖母も父親もその高校だったので、そこ以外は選べなかったですね。

——本当は自分で高校を選びたかったんですね。入学してどうでしたか。
入試の成績で振り分けられ、文系のトップクラスに入りました。トップクラスだけ特別扱いで、ほかのクラスと勉強のしかたがまったく違うんです。先生も開口一番に「君たちは、東大か京大か阪大に行くんだよ」と。東大に行くぞと、意気込んで勉強する周囲の子たちと、入学直後から距離を感じました。卒業後の進学先や就きたい職業をすでに決めている子が多いなかで、私はなにを目指したいのかわからなかった。みんなと成績の差がどんどん開いて、追試を受けてやっとついていっている状態でした。なんとか2年生に進級したのですが、トップクラスに残りたくなかったので、2番目のクラスを選びました。でも、勉強は楽になったけど、今度は周囲に「トップ落ち」と言われてしまって。クラスにも馴染めず、そこから学校にほとんど通えなくなりました。

——辛かったですね。家族はどんな反応でしたか。
せっかくトップ校に入れたのに、なんで行けないのと。成績が悪いなら、その分勉強すればいいと言われるのですが、私は教室に入ることさえできない。みんなができることを、なぜ私はできないのかと悩みました。親を困らせないように、朝家を出るのですが、保健室にいるか、市立図書館などで過ごしていました。

自分のペースで
生きる力を取り戻す

——学校にも家庭にも自分の居場所がない状態ですね。
週に一度、学校に来ていた心理カウンセラーには、自分の気持ちを話すことができました。これ以上ここにいても先が見えないと思ったときに、その方が通信制の高校を紹介してくれました。その方に出会い、カウンセリングを受けるうちに、大学に進学して心理学を学びたいという気持ちが芽生えていたので、転校して大学を目指したいと親に話しました。両親とも家庭の事情で大学を出ていないので、私には行ってほしかったようで、大学に行くならと了承してくれました。

——転校してから、生活はどう変わりましたか。
週に一回だけ通学すればいいし、履修科目は自分で考えて自由に組み立てられる。生徒同士もほど良い距離があったので、楽になりました。普通の高校では、毎日休まずに通い続けることも、自分にとって大事なことを自分で決められないことも、しんどかったですね。みんなはそれができてすごいなと感じていました。私は体よりも心が疲れてしまうんです。通信の高校でマイペースに学べるスタイルが私に合っていて、だんだん余裕が出てきたので、アルバイトを始めました。

——どんなアルバイトでしたか。
近所のうどん屋さんなのですが、店先にバイト募集の張り紙があって。それまで自分から行動したことがなかったので、すごく緊張しましたが、思いきって電話をかけて応募しました。最初の数ヶ月間、なかなか馴染めずにいたときに、年齢が近い社員の女性がいつも私のことを気にかけてくださったんです。その方を通じてほかのスタッフとも仲良くなり、仕事が面白いと感じるようになりました。マニュアルがないので、お客さまと自然な感じでやりとりできたのもよかったです。その後も接客の仕事に携わってきましたが、接客や仕事のしかたは、その方にすごく影響を受けています。たとえば、嫌な仕事ってありますよね。あるとき、お客さんが店内で戻しちゃったことがあって、私がその場にいたので掃除したいと申し出たら、「私がやるから大丈夫だよ」と。しかも、あなたにはこれをやってほしいからと、ほかの仕事を振ったうえで相手に気を使わせることなく素早く対処していた。私もあの人にように仕事ができる人になろうという目標の人になりました。今も、職場全体が動きやすくなるようにと意識して動くのは、そこでの経験があるからです。

——通信の高校から大学に進むために相当努力したのではないでしょうか。大学はどのように決めたのですか。
私は大勢のなかだと人目が気になるとわかっていたので、人数が少なめで、心理学科のあるところ。地元を出たいけど、東京や大阪のように大都会ではなくて、と絞りこんでいったら、京都のノートルダム女子大学が候補にあがりました。思いきって一人で京都のキャンパスに足を運び、オープンキャンパスに5〜6回通って、最終的にここだと決めました。

——すごい行動力ですね。自分で自分の道を選んでいる手応えがあったのでは。
通信の高校やバイトでの経験が、自分の力になったと思います。母親は、学校に行けない私を見てきたので、自分で決めて動いていることがすごいと褒めてくれました。私立の大学に反対する父親を説得してくれて、祖母にもうまく言っておくからと。

——お母さんが、味方になってくれたんですね。
母は高校を卒業して就職したのですが、自分の希望ではなかったそうで、人生をもっと思うように生きたかったと思っていたのかもしれません。私がやりたいことに向かっていくことを誇らしく思っているようでした。思えば、うちの家族はそんなに仲が良いほうではなく、家族旅行や家族みんなで外食をしたことがほとんどないんです。でも、私が高校最後でうどん屋のバイトをやめる直前に、三人揃って店に食べに来てくれたことがあって、表には出さないけど、家族それぞれが私を思ってくれているのを感じました。

魅力的な人たちとの
出会いに導かれて

——京都での学生生活はどうでしたか。
サークルに入って、友人もできて、バイトを始めました。最初は近所の蕎麦屋だったのですが、私がミスしたときに、社員に「死ね」と言われたんです。ショックを受けてすぐに辞めたのですが、その直後に見つけたのが、開店したばかりのプレマルシェ・ピッツェリアでした。蕎麦屋で失敗したので、まず食べに行こうと思い、行ってみました。店内にすごい種類のジェラートがあって、どれもカタカナのフレーバー名で、「ヴィーガン」ってなんだろう?と頭のなかがハテナだらけでしたね。それまでアイスといえばチェーン店しか知らなかったので。スタッフがとても気さくで、会話しながらフレーバーを選ぶのが楽しかったです。明るい雰囲気に促されて、その場で「アルバイトに応募したい」と伝えました。面接時も終始なごやかで、ここで「死ね」と言われることは絶対にないだろうと思いました(笑)

——働き始めて、どうでしたか。
最初の数ヶ月間はお客さんが少なくて、誰も来ない日もありました。空いた時間に北山駅前でビラ配りをして、道ゆく人に話しかけたりしていました。一度ご来店いただくと、常連さんになる方が多かったです。話を伺うと、じつは通販を使ってくださっているとか、プレマのファンでいてくださる方もいて、私のほうがいろいろ教えていただきました。
 その後、1回生の秋にバセドウ病になってしまい、実家で半年間ほど療養することになったので、いったん辞めることになりました。でも、「元気になってまた戻っておいでね」と言ってくださって、また戻ることができました。その時期は、落とした単位を取り戻すのに必死だったので、ひたすら勉強とバイトの生活。店が三条商店街に移り「プレマルシェ・オルタナティブダイナー」として再オープンした後は、メインのアルバイトスタッフの一人になり、メニューを決めたり、キッチンの補助など、幅広い仕事を担うようになりました。

——頼りになる存在だったのでしょうね。
アルバイトの私が、どこまでやっていいかわからないなか、店長が信頼して任せてくださったので、いろいろなことにチャレンジできました。新メニューのアイデアを出したら採用してくださって、たとえ売れなくても責められることはなかったです。就職活動で他社の面接時に「一番尊敬する上司は」と聞かれたのですが、真っ先に店長の顔が浮かびました。

——ダイナーで働くことで、気づいたことや影響を受けたことはありますか。
お客さまがハンバーガーを注文したときに「普通ので」と仰ったことがありました。私は肉とチーズを使ったハンバーガーを思い浮かべましたし、その方にとってもそれでしたが、そのときにハッとしました。じつは人それぞれに普通があって、それは話してみるまでわからないこと。ダイナーでは、ヴィーガンやグルテンフリーなど、食の制限を超えたメニューを多数用意していて、お客さまそれぞれにとっての普通の食事ができます。でも、世の中には、自分にとっての普通を求めているだけなのに、苦労している人がたくさんいることに気づきました。高校に通えず、普通の人と同じことができないと悩んでいた私にとって、ダイナーのコンセプトはまさに自分を救ってくれるものでした。人それぞれでいいのだと。

——社員になりたいと考えたのはなぜですか。入社してどう感じていますか。
心理学科で学んでいるときに、私はマーケティングなどの消費者心理に興味を持ち、資格を取りました。就職活動が難航するなかで、よく考えたら、私はプレマでいつも「どうしたら人が来てくれるか」に取り組んできたことに気づいたんです。思い切って社長に直談判し、採用していただきました。プレマには通販や飲食店、店舗など、お客さまとの接点がたくさんあります。以前は目の前の仕事で精一杯でしたが、今後はいろんな接点を通じて、一人でも多くの方と、長くお付き合いいただけるような関係づくりをしていきたいです。振り返ってみると、自分で選択してきたことは、すべて今につながっていると思います。

——趣味はなんですか。
高校2年生のときから、ジャニーズに「推し」の人がいて、コンサートや舞台を見に行くのが楽しみです。その人はずっとがんばっているんですけど、まだデビューしてなくて。一番つらかった時期に、その人を応援することが心の支えになっていました。華やかでぱっと光るスター的な人ではなくて、多くを語らないけど、影ですごくがんばっている。そういう人に惹かれます。私もそうなりたいし、私もがんばろうと思えるんです。

数少ない家族旅行の思い出。父に温泉卵を食べられて泣いた後、抱っこされてこの笑顔

- 特集 - 2022年6月発刊 vol.177

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