農業ルネッサンス元年

【Vol.99】童謡の力 (1)

♪アンナマイ     (母・祖母も)
 シュウマイ     (父・祖父も)
 ジョウカリウンナ(お元気ですか)
 ジョウカリウッスッガド(元気だよ)
 キシャチュンマミューン
(長らく会ってないね)
 麻里奈マイ     (麻里奈も)
 由梨奈マイ     (由梨奈も)
 バガンマガ    (私の孫だよ)
 アタラス基貴マイ(いとしい基貴も)
 バガンマガ♪   (私の孫だよ)
―「故郷の空」の替え歌―

目を閉じて介護ヘルパーの呼びかけにも無反応だった認知症の母が私が歌い出すとかすかに笑みを浮かべて歌に合わせて口を動かす。私は歌を続ける。

♪ゾウさん/ゾウさん/おはながな
がいのね/そうよかあさんもながい
のよ/
 ゾウさん/ゾウさん/だれがすき
なの/あのねかあさんがすきなのよ

母の表情を見ながら歌う私の目に涙が……。

♪おうまのおやこは/なかよしこよ
し/
いつでもいっしょに/ポックリ/
ポックリ/あるく/
 おうまのかあさん/やさしいかあ
さん/
こうまを見ながら/ポックリ
/ポックリ/あるく♪

♪烏/なぜ啼くの/烏は山に/可愛
七つの子があるからよ/
可愛/可愛
と/烏は啼くの/可愛/可愛と/啼
くんだよ/
 山の古巣へ/行って見てごらん/
丸い眼をした/いい子だよ♪

♪母さん/お肩をたたきましょう/
タントン/タントン/タントントン♪
(替え歌)
♪カアチャン/カバスピーユ(いい匂
いのオナラを)/
カバシマしよう(匂
わしましょう)/
ブップ/ ブップ/
ブップップー♪

今年の初め頃は体は不自由で寝た切り状態でも会話はできていた。私がこの歌を歌い出すと、母は私に対して「こんなバカな子を産んだ覚えはない」と笑いながら言った。「じゃあどうしたの?」「橋の下で拾ってきて育てた」。

♪おかあさん/なあに/
おかあさん
て/いいにおい/
おりょうりしてい
た/においでしょ/
たまごやきのに
おいでしょ♪
(替え歌)
♪おかあさん/なあに/
おかあさん
て/いいにおい/
スゥバブットゥル(宮
古式手作り焼きソバ)のにおいです
/ワーアウワンスゥ(豚肉入り宮古
式手づくり油みそ)のにおいです♪

母は昔からこの二つが大得意だった。妹が農協女性部で何度も挑戦するが母の味は出せないと言っている。 私が高校時代まで宮古(島)には車はバスとキビ運搬や土建業のダンプカーぐらいだった。特に農村地域では一日に一回も車を目にしない日が多かった。私たち兄弟姉妹は畑の行き帰りはいつも母といっしょに馬車に乗っていた。畑へ行く時も畑作業の時も畑から夕日をながめながら帰る時も母といっしょに童謡を歌っていた。夕食後も母を囲んで歌った。

―「赤い靴」の替え歌―
♪ウプタダーヌ    (畑の地名)
 パリヌアッチャから(畑のそばから)
 馬車に乗って
 ピンジャといっしょに  (山羊と)
 帰ります。♪

この他に「赤とんぼ」や「しゃぼん玉」「夕やけ小やけ」などを毎日、朝、夕、時には夜中に歌って聞かせた。 母は今年三月から六月まで危篤状態が続き、入退院をくり返していた。六月に医者から「手術が必要だが高齢(九十三才)のためたぶん手術は無理です。他の治療もこれ以上はできません。今、最期を迎えてもそれを受け入れた方が母さんのために良いと思う」と宣告。 私は母に安らかな最期を迎えさせてやりたくて、母が好きだった童謡を毎日歌い、またCDを聞かせてきた。童謡の世界と宮古(島)の農的世界については次回に追記します。

川平 俊男
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。

【Vol.98】宮古(島)から世界へ 3

 「朝も昼も夜も常にアサでした」(笑)。9 月20日(日)にヘンプカープロジェクトを推し進める中山康直さんの講演会と交流会がありました。「ヘンプカープロジェクトとはヘンプ油で車を走らせながら、全国各地の麻にゆかりのある土地やを訪ね、交流し、石油などの地下資源浪費型文明の克服にむけてお互いの知恵を出し合い、地域還元型社会の創造に向けて環境・経済・文化全てにわたり、ヘンプがいに有用・重用であるかを理解し合う事を続けていく事です。2002年に始めた時は何もかも手さぐり状態でした。廃食油で車を走らす試みが各地であり、私たちもその車を借りて、同じようにヘンプの廃油を使いました。2011年東北震災・原発事故をきっかけにプロジェクトを再開しました。2011年7月7日~8月8日北海道。同年10月22日~11月6日東海。2012年8月8日~8月21日富士山麓→四国→淡路。2013年6月29日~7月8日三重→奈良→大。同年8月8日~9月8日東北・北陸。2014年近畿→山陰→山陽。2015年山陽→北陸。麻の実の国内生産量は少なく外国から麻の実を輸入し、自分たちで直接搾油し、沈殿物はヘンプバターとして販売しました。各地の交流会場では搾油体験やヘンプバターの試食も行いました。特に子ども達に大受けでした。ヘンプカー(キャンピングカーを利用している)の内部も工夫を重ね、毎年進歩してきています。特殊なバッテリーも利用し、停車中でも様々な電気器具が使えます。アメリカ、イギリス、ドイツでは車の内装品だけでなく、車体やガラスにもヘンプ製品の利用が拡がっています。原料となるヘンプ生産も拡大し、重要な産業に発展しつつあります」。中山さんの話はヘンプカープロジェクトだけでなく、ヘンプ(麻)の歴史・種類・ヘンプの無限の可能性と切り開く未来と続きました。ヘンプは宇宙=神からの贈り物である事をくり返し強調しました。
 (中山康直。1964年静岡生まれ。1998年伊豆大島に移住。大麻取扱者免許を取得。縄文エネルギー研究所代表。大麻草検証委員会幹事。) 私たちは宮古(島)の未来とヘンプの可能性について8年前から研究を続けてきています。私はヘンプの大きな可能性に気づきました。地元の新聞に「ヘンプ=産業用大麻(オオアサ)は宮古を救う!」を載せました。
 「昔から宮古(島)の人たちは台風・干ばつ・悪政(人頭税)に苦しみ、常に飢餓の恐怖に直面していた。16世紀末にイモが伝来し、明治期に人頭税廃止後にサトウキビの本格的生産が定着した。イモとキビは他の雑穀類や豆類と共に宮古(島)の人たちのいのちとくらしを支えてきた。しかし、現在、食と農をとりまく環境は大きく変わった。雑穀類、豆類、麦もなくなった。野菜の大規模栽培が盛んになってきたがそれは宮古(島)の人たちが食べるためではなく東京・大阪市場に出荷するためであり、宮古(島)を自分たちの手で大都市の植民地に変えてしまいましたった。しかもその清算のしかたは環境破壊型である。土も空気も水も緑も鳥も虫も微生物も人間の健康も破壊し、破滅への道を選んでいる。宮古(島)の再生は今のあり方を根本的本質的に変える事から始まる。破壊型から蘇生型に変える事だ。生産・加工・流通・販売全分野において生産農家を主役とするあり方をつくる必要がある。無限の可能性を持ったヘンプが宮古(島)には必要である。」 これが新聞に載せた内容の大筋です。今でもこの考え方、方向性は変わりません。ヘンプカープロジェクトの話を聞くと宮古(島)が直面している問題は全国的に拡大し深刻化していると思います。自然エネルギーに目が向けられ、宮古(島)でも国策として風力発電・太陽光発電・サトウキビの利用が進められていますが、あまり良い結果を出していません。台風の問題もありますが、何よりも高度な技術と莫大な資金が必要であり、宮古(島)の人たちには出来ません。ヘンプは出来ます。自然エネルギーとしてヘンプに勝る素材はありません。麻の実は体にいい栄養素をバランス良く含んでいると言われます。ミネラル豊富な宮古(島)の土壌で育ったヘンプの実は世界でも有数の良質な食材になるでしょう。

【らくなちゅらる通信97号の訂正】

■ 2段目1行目
(誤)先日ネパールに……
(正)伊加賀さんは語っています。
   「先日ネパールに……
■ 2段目6行目
(誤)原酒 (正)原種

川平 俊男
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。

【Vol.97】宮古(島)から世界へ 2

「オジイさんは山へ柴刈りに オバアさんは川へせんたくに」(日本昔ばなしより)、中国南部、ベトナムに近い広西チワン族自治区巴馬のある村で100才をはるかに超えたオバアさんが鉈を担いで山へ柴刈りに行ってるとのことです。世界一の長寿村と言われる巴馬には国が長寿研究所をつくり、又世界中から研究者が集まり長寿の原因やしくみを調査しています。現在までに明らかになってきた事は、この村の人たちは麻の実を多用し、常食している、この村では100才以上の人たちが元気に働いている、寝たきり老人もいないなど。柴刈りオバアさんは2012年調査時で123才でした。驚きを超えて感動しました。
研究はすすみ、麻の実は地球上で最良最強の抗酸化物質を含み、体中の細胞を常に若返らせる力がある事がわかっています。麻=大麻には精神や肉体を強く刺激する物質を多く含む品種とほとんど含まない品種及びその中間品種があり、前者を医療用大麻、後者を産業用大麻(ヘンプ)と分けていて、日本では現在は産業用大麻(ヘンプ)が県知事の許可で栽培できます。マリファナをつくり、大麻=麻薬=悪として厳しい法規制を受けているのは医療用品種が原因です。産業用品種(ヘンプ)はその巻きぞえにされています。山野に大麻草が自生している所や太古から常食したり薬用に活用している所ではあまりその分類にこだわらず、自分たちでうまく使い分けています。

先月ネパールに行ってきました。私たちが村おこしの原動力として進めている麻の栽培及びその加工・活用のために生産農家の人たちだけでなく、いろいろな関係者の人たちと話してきました。原酒の麻の実を食べてその生命力を再度、実感しました。牛や山羊のエサとして麻がよく利用されてきていると農家の方が話していました。特に牛や山羊の体調が悪い時、麻の葉や花穂を食べさせると元気をとりもどす事を伝統的知恵として受け継いできている話は大変興味があり、今後の麻の取り組みにヒントをもらいました。

私は暑さに極端に弱い体質です。特に今年は週2~3回は熱中症で寝込んでしまい、医者からもいのちが危険域に入っているぞと指摘されています。その対策として七月に伊香賀さんから一枚の布を渡されました。麻布を麻炭で染めた布でした。強い陽ざしの中で作業をする時はそれをターバンのように頭に巻いていました。すると不思議な事が起こりました。頭が以前のように熱く感じないのです。以前は冬の弱い陽ざしの中でもタオルを頭に巻き、更に麦わら帽子をかぶらなければ外に出れませんでした。そして時間が経つと頭が猛烈な熱さを感じ、汗が頭からふき出し、意識はボーッとなり、体がフラフラ不安定な状態に進んでいました。それでも作業を続けていると、首がたれてきて、視線が下向きになり、前方を見つめる事ができなくなります。トラクターなどの機械作業は非常に危険になり作業は中止です。それが私にとっての日常でした。麻炭布を使っても熱中症になり以前と同様嘔吐や下痢は続いていますが、頭は熱く感じなくなりました。作業を終わり、頭に巻いていた麻炭布をとり外しシャワーを浴びる時になって頭が熱く感じます。汗でびっしょり濡れた麻炭布を洗わずにそのまま置いていても、次に使う時にも匂いません。頭髪の匂いもありません。麻炭布は7月から水洗いさえしていないが汚れも感じません。木綿のタオルの場合、一日で汚れてしまいます。伊香賀さんにその理由を聞きました。「それが農薬・化学肥料なしで育った麻でつくった麻布や麻炭の持つ不思議な力なんです。最も汚れやすく、匂いの目立つくつ下も麻炭布製のものは数日間はいていても匂いません。下着類やシャツなども木綿や化繊でつくったものとはまったくちがった感じになります」。伊香賀さんは麻炭布と木綿や化繊類とのちがいについて詳しく話してくれました。麻炭布をカーテン、シーツ、タオル、ハンカチ、枕カバー、ふきん、赤ちゃん衣類など活用していく時の住まいの変化、特にこれからの高齢化社会での高齢者の住まいの問題(年寄り=臭いへの対処)……と話は発展していきました。

(続く)

川平 俊男
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。