質問: 私は、小学生、中学生、高校生の男の子3人の母です。一生懸命育てているつもりですが、今まで通りでいいのか迷ったりもしています。中川さんを見ていると、自己肯定感がとてもしっかりあるように思いますが、そのようになる秘訣はありますか?(佐賀県 Jさま) |
答え: 私の「自己肯定感」が充分かどうかはわかりませんが、いつどのような状況になってもなんとか生きていけるという、根拠のない自信がどこかにあることは事実ですo(^-^o) 私は立派な学校を卒業したわけではありませんし、父親は産まれた時点でいませんでしたから、そのような自信をもつ学歴や父親像などの背景があるわけではありません。自分自身に父親のイメージがないにも関わらず、子ども5人のうち3人は男の子ですから、因果なモノだなぁと思いますが、私の経験がヒントになるようでしたら、参考程度の材料ならあるかもしれません。 幼いときの私は、およそ祖母と叔母(母の姉で、子どもはいませんでした)に育てられました。今でも思い出すことは、明治生まれで幼少のころから丁稚奉公に出されてとても苦労した祖母に、私がたとえ何をしても「のぶちゃんは偉い」とずっと言われ続けたことです。幼稚園のころには、お寺さん(菩提寺)に連れて行かれるたびに、私がどれくらい偉いかをずっと話し続けていました。貧しさ故お布施を包むことが少ない祖母の自慢話は、どれくらい迷惑だったでしょうか(汗)。このころ、私は廃棄されている家電製品を分解するのが大好きでした。そんな私を見て「のぶちゃんは手先が器用だから偉い」と祖母は褒めてくれました。「解体はできても、組み立てることはできない」にも関わらず、です。 祖母は文字が読めませんでした。ですから私はちょっとした文字を読むだけで「偉い、賢い」と言われました。ある日、祖母は石川県のふるさとの昔を懐かしむ話をしていました。それを聞いた小学校5年くらいだった私は、はじめて見る時刻表を片手に金沢に連れて行きました。そこで親切なタクシーの運転手さんにお願いして、祖母の両親のお寺を突きとめ、そこにお参りすることができました。それをどれほど祖母が喜んだことか、おそらく彼女の魂を揺るがすくらいだっただろうと思います。 小学校3年のころ、私はいじめられていました。学校に行って、すぐ帰ってきた私を祖母は絶対に責めませんでした。今ならすぐに不登校だ、イジメだなどと言って大騒ぎですが、祖母はただじっと私と一緒に家にいてくれました。また、学校に行くときには付いてきてくれたので、同級生にからかわれたりして恥ずかしかったのですが、どれだけ心強かったことでしょうか。 経済的な事情もあって、同級生がほとんど通っている塾にも行かず、宿題をするわけでもなく、毎日遊んでいる私を見ても、祖母は勉強しろなどとはひとことも言いませんでした。それは叔母も母も似たようなもので、とにかく私は『偉くて、賢かった』のです。 逆に、基本的なしつけは大変厳しかったです。特に食べものを粗末にしたら手を叩かれたり、ご飯を食べさせてもらえなかったりしました。たとえ偉くて賢くても、絶対にダメなことはダメでした。何があってもダメなことと、何があっても信頼され、許され、賞賛されること……これが完全に解け合っていたのです。これが祖母という人でした。 私が中学2年のとき、当時80歳だった祖母は、病院の住み込み家政婦として働いている途中にガンで倒れました。もう手の施しようがなくなった祖母は一時、家に帰っていました。床に伏している祖母に、見よう見まねで覚えた彼女が作ってくれたやり方で、大根を炊き、黒豆を炊いて出しますと、涙を流しておいしい、おいしいと喜んで食べてくれました。作った本人はそれが決しておいしくなかったことをよく知っています。 そこで得られたものは、数限りなくあると思います。自分で考え、選び、決定すること。そこに完全なる責任を持つこと。何でもいいから一生懸命すること。見えないところで必死に努力すること。完全に許されること、つまり溺愛されること。 おそらく、子育てには安易な秘訣はないのでしょう。ただひとつあるとすれば、たとえそれがどんな人生であっても、親はその天命を恨むことなく必死に生きること。そして子は溺愛することでしか育たないのだと思います。 |