「父が見ていた景色を見ておきたくて」。
数か月前に他界された患者さんのご家族が、治療予約し来院されたときの一言です。生前、治療を受けた後は楽になるからと「ここに来るのを楽しみにしていたんですよ」とも言ってくださった。とても有難い言葉でした。
人は、人から喜ばれることによって生かされている。自分のおこないが人に喜んでいただけるように、自分もまた人にしてもらった嬉しい気持ちを伝えたいものです。わざわざ言うほどでもない小さなことであっても、それを伝えられた相手にとっては、明日への励みになるでしょう。
損得勘定の先に
ご予約の時間を過ぎても来られず、こちらから確認をしようとしても連絡が取れない。数十分、数時間後、あるいは翌日になって、ご本人が気がつき慌てて連絡してこられることもあります。一方で、連絡がないまま、それっきりになってしまうこともあります。急用ができたり、予定を勘違いしていたり、人間のすることなので一度や二度はだれにでもありそうなことです。たった一度でそれっきりになってしまう、これまでの治療と関係性は、その程度のものだったのかと残念な気持ちになります。
気がついたとして、それから謝りの連絡をするのは気が重いことかもしれません。でも、だからこそつながることもある。気の重さは、関係性の重さそのものかもしれません。
ごく稀にではありますが、後日になってから「もう二度と行かないから」と連絡してこられたことが過去にありました。これまで世話になったと感謝されることもなく、予約時間に来なかったことを謝罪されることもなく、わざわざ後ろ足で砂をかけるが如く、よくそんなことができるなと感心してしまいます。こちらが嫌な気分になることをやったところで、なにかの得をするわけでもないだろうに不思議な気さえします。
これも陰と陽と考えて、相手が得をすることがないのなら、こちらが損をすることもないだろうと流せるようになってきました。
世の中には「どうせ二度と会わない人だからいいや」と言う人がいます。「旅の恥は掻き捨て」とばかりに、恥ずかしいことをしても、もう二度と会わなければいいと考えてしまうのかもしれません。だけど、本当のところは二度と会わない人にこそ、大事にすることがあるのではないかとも思います。これからも会える人なら、この先いくらでも挽回できる機会もあるでしょう。でも、その場かぎりの人には、謝るべきことには謝って、感謝を伝えるところで伝えることでしか自分を取り戻すチャンスはありません。
もう二度と会わないかもしれない人や場所、その去り際にこそ、その人の人柄が表れそうな気がしています。
恵みとめぐり
禅の言葉に、「萬法一如」とあります。すべての現象(法)は、本質的には一つである。生まれてから死ぬまでの自分の人生も、自分以外の人との関係も人生はすべてつながり合って成り立っているということです。つながっているからこそ、お互いのことを考えて生きる大切さが説かれています。
食事の際に「いただきます」と手を合わせるのは、大自然の恵みと、多くの人々の働きがあってこの食事が調っていて、その食事を自分がいただいて一つになることへの感謝。恵みとめぐりと、そこに身を置く有難さを表現しています。
すべてのことが巡り巡ってつながり合っている。もう二度とないと思っていたことも、またあるかもしれません。「その節は……」と挨拶できるくらいの関係でいるほうが、笑顔で再会できそうです。