自然なお産を求めて

【Vol.30】最終回・赤ちゃんのためのお産

 お産の主役は産科医でも助産師でもありません。主役は産婦と赤ちゃん、とくに赤ちゃんです。お産はなによりも赤ちゃんのためのイベントです。しかも、じっさいに赤ちゃんこそお産の主導権者なのです。

 妊娠期間中、赤ちゃんはさまざまな肉体的、精神的ないとなみを日夜おこなっています。出産へむけての準備もその一環です。もとより赤ちゃんの霊魂は、出産についてもあるていどの見とおしをもって降臨してくるものです。しかしそのあとも、胎児としての自分の置かれた情況を勘案しながら、計画を練りなおしたりするのです。たとえば出生の時期を早めたり遅らせたりすることもあるし、ときには胎児としての存続を中断してしまうこともあります。出産の場所や方法についても本人なりに一定のもくろみをもつでしょう。出生の期日がちかづくと、赤ちゃんはみずからホルモンをだして母体の最終的な準備態勢を起動させます。

 このように赤ちゃんじしんが出産を主導しているのであれば、その本人の意向どおりにコトが運ばれてゆくのがもっとも自然であるはずです。おとなの役割は、赤ちゃんの意向を尊重し、できるだけその意向にそうよう協力してあげることです。ところが現状はどうでしょう。おとなたちは、協力どころか、赤ちゃんをなんの意志ももたない肉のかたまりであるかのようにみなして、勝手に出産日を決めたり薬剤や器具を用いて強引に取り上げたりするのです。赤ちゃん本人の計画に逆らうこのような出産のありかたは、当然ながら赤ちゃんと母体の生理におおきな歪みをもたらさずにはおかないでしょう。

 ではわたしたちは、どのようにすれば赤ちゃんの意向にそうことができるのでしょうか。

 一般的にいえることは、できるかぎり医療的な技術にたよらず、自然のなりゆきにまかせることです。たとえば、予定日を何日すぎようと、陣痛がどれほど弱かろうと、なりゆきにまかせてひたすら待つのです。これはむかしの産婆や助産婦が営々と実行してきたことです。

 ただし、そのようなおおざっぱな一般論だけでは、個々の赤ちゃんの特別な要望にこたえることはできません。個々の赤ちゃんの特別な要望にこたえるためには、まず当の赤ちゃんの要望を把握しなければなりません。当の赤ちゃんの要望を把握するためには、その本人から情報を得なければなりません。赤ちゃんとの通信の必要性がここでも浮かびあがってくるのです。

 赤ちゃんとの通信の方法としては、その霊的な意識と直接に対話するのが最良です。情報の質も量もこれがいちばんです。通常、母親が瞑想状態になって赤ちゃんに呼びかけることで交流が可能になります。この方法が困難であるようなら、物理的な反応を求める質疑応答によって情報を得る方法もあります。子宮壁へのノックというかたちで赤ちゃんに応答してもらうのです。これならだれにでもできます。むろん前者の方法と後者の方法をあわせて活用することもできます。

 ところで、ここでひとつ覚悟しておかなければならないことがあります。それは、なかば霊的な存在である赤ちゃんの発想がときとしてこの社会の常識を超えてしまうことです。たとえば、赤ちゃんは出産の場として自宅をえらび、しかも助産師の立ち会いさえ拒むかもしれません。またたとえば、赤ちゃんは生きてうまれることを望まないかもしれません。それでもわたしたちはそうした意向を尊重し、できるかぎり協力しようとつとめなければなりません。もちろん本人との話し合いによって折り合う余地はありますが。

 生きてうまれないなどというのは、たいていのひとにとってとうてい受けいれがたいでしょう。けれども、ほんらい、ひとの本質は霊魂です。霊魂は不滅であって、死ぬことはけっしてありません。この世にはただかりそめの修行にきているだけです。子宮のなかだけの人生も、百歳までの人生も、修行という点では同格です。重要なのは修行の成果であって、生きた時間のながさではありません。

 とはいえ、そんな霊的な価値観などこの社会では通用しません。それゆえ、赤ちゃんの意向にそった支援をすることが、ときとしてこの社会の常識や法律との軋轢を生じることをも覚悟しておかなければならないのです。

 いつの日にか、この社会が偏狭な科学教の迷信から解放されて、霊的な価値観を基盤とするようになることを願うばかりです。そのあかつきには、助産師も立ち会わない家族だけの自宅出産(プライベート出産)も、選択肢のひとつとしてふたたび日の目をみることになるでしょう。

(終)

さかのまこと

さかのまこと氏
自然哲学者。
慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。

【Vol.29】プライベート出産

 現在、ほとんどの産婦が病院で出産します。ごく少数が助産院で、さらに少数が自宅で、助産師の介助によって出産します。じつはこれらのほかに、もうひとつ、特殊なかたちの出産があります。それは、助産師の介助も受けない自宅出産です。

 他人をまじえない内輪だけの出産という意味で、この自宅出産を「プライベート出産」とも称します。たいていは夫婦だけの出産となります。産婦単独の出産になることもあります。こうした出産は反社会的な行為です。

 〔産科医療の体制のなかで出産するべし〕という社会のおきてに反しているからです。

 医師や助産師の介助によって出産するばあいには、産科学にもとづいた医療マニュアルが適用されます。この医療マニュアルは、すべての学問・科学や教育がそうであるように、あくまでひとつの流儀、ひとつの信仰にすぎません。そのひとつの流儀・信仰にだれもが従うよう強制されているわけです。もし、この医療マニュアルに違和感をもち、その強制から自由でありたいとのぞむなら、――可能な方途はただひとつ、プライベート出産しかありません。

 内輪だけの出産というと、世間ではとんでもないことのように思いがちです。けれども、ヒトをふくめすべての胎生動物はその「とんでもないこと」をえんえんとくりかえしながら生き継いできたのです。もとより出産は自然現象です。それは自然そのものの自然ないとなみであり、赤ちゃんはたいてい自然に生まれてくるものです。

 くつろぎが自然な出産のための鍵をにぎるという点においても、プライベート出産の利点はあきらかです。住みなれた自宅で家族だけでリラックスして出産することがどれだけ分娩や育児の助けになるか、産科医には想像することもできないでしょう。

 それならプライベート出産はいいことずくめなのかというと、けっしてそうではありません。むしろたいへんなことのほうがおおいのです。

 この文明社会では、子どもを産むにふさわしい場所もないし、母体には出産に適する体力も知力も精神力もじゅうぶんそなわってはいません。出産のための本能も衰退してしまっています。だれもが化学物質等によって汚染されていて、なにかと正常な機能を発揮できなくなっています。にわか仕立てで自然出産にふさわしい環境と能力をそなえようとすることはきわめて困難です。要するにわたしたちは無介助出産に向いていないのです。プライベートな出産にどれだけのメリットがあるにしても、ときとして問題が生じることは避けられません。しかも、プライベート出産をするひとは社会的に孤立無援です。医療的にも法的にも疎外されていて助けが得られません。産科医は飛び入りの急患などまず受け入れません。プライベート出産で問題が生じたばあいには通常以上に深刻な事態におちいりかねないのです。

 そうしたマイナス面の深刻さからして、現状では、プライベート出産は推奨できるものではありません。(拙著『あなたにもできる自然出産』は、無介助出産のための準備や出生届などについて解説しているので、あたかもそうした出産をすすめているかのように受けとられがちです。けれども、前書きでも「けっしてプライベート出産をすすめているわけではありません」と明記しているように、わたしはプライベート出産を推奨してはいないのです。)

 最近実施されはじめた「無過失補償制度」は、出産時の事故で子どもが脳性マヒになったばあいに、総計三千万円が親に支給されるというものです。その種の事故はむろん無介助出産でも起きますが、そこでは補償金は一円もでません。このことも、プライベート出産を不利にする要素として特記しなければならなくなりました。今後、プライベート出産はいっそう非現実的な選択となってゆくことでしょう。

 現行の医療体制のなかでは、プライベート出産はみとめられなくて当然です。しかし、みとめられないままでよいというわけではありません。医療の支援を受けながらも無介助出産のかけがえない利点を生かすことができる、そのような道をわたしたちは模索してゆくべきでしょう。プライベート出産こそ、自然出産の原型であり理想型なのですから。

さかのまこと

さかのまこと氏
自然哲学者。
慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。

【Vol.28】新生児は泣くか

 医療者は、生後一分(およびそれ以降)の新生児の状態を五項目について採点し、「アプガースコア」として記録します。そのうち「呼吸努力」と「反射興奮性」については、泣き声を採点の重要な目安としています。泣くことが状態のよさを示すとみるのです。たしかに、泣くためには呼吸が必要だし、神経活性がじゅうぶんであってはじめて泣く行為が可能となります。そこで医療者は、生まれたての赤ちゃんはおおいに泣くべきであり、すこしも泣かないのは泣くちからもないからだと思うようになります。

 しかし、新生児が泣くかどうかは、またべつの面からも考えてみなければなりません。というのも、自宅などで自然に生まれた赤ちゃんのおおくはほとんど泣かない、という事実があるからです。赤ちゃんは、泣かないで肺呼吸をはじめることができるし、泣くかわりに目をあけて周囲を観察したりすることができます。そういう赤ちゃんは、すこしも泣かないのに、問題なく元気なのです。

 いっぽう、病院で生まれた赤ちゃんのおおくは、目をつぶって泣くばかりで、ほかになんの行動をとることもできません。まるで無能力者です。そういう赤ちゃんばかりを目にしていたら、新生児はただの肉のかたまりにすぎないと思ってしまうでしょう。じっさい産科医たちは、新生児を知覚も未発達な肉塊とみなして手荒くあつかってきました。いまではだいぶ改善されてきていますが、しょせん唯物医学の偏狭な認識眼では赤ちゃんの真実をとらえることは不可能です。

 ヒトの赤ちゃんはかなり未熟な成長段階で生まれるというのは周知のとおりです。が、それでも母親の乳首に自分で吸いつくくらいの本能的能力はもって生まれてきます。生まれたての赤ちゃんは、目もよくみえるし、頭もうごかせるし、這って移動することもできます。

 そればかりではありません。人間の赤ちゃんはたんなる肉体以上の存在です。新生児は霊覚者(霊的に目覚めたひと)です。生まれたばかりの赤ちゃんはよくわかっているのです。自分がどこからきたのか、なんのためにきたのか、家族のひとりひとりとどのような因縁にあるのか、を。それゆえ赤ちゃんは、はじめから家族のひとりひとりに特別な思いをいだいています。赤ちゃんは、その思いをこめて、家族のひとりひとりをみるでしょう。おだやかな場で自然に生まれた赤ちゃんは、たいていごく自然に両親や兄弟にあいさつをします。生まれたての赤ちゃんは、笑うこともできるし、ことばを理解することもできます(ことばを発する可能性さえあります)。

 赤ちゃんは、まず両親にあいさつするかもしれないし、まず母親のおっぱいに吸いつこうとするかもしれません。わが家では、第一子・第二子ともにおっぱいがさきでした。第一子のばあいを記してみましょう。

 お風呂で生まれた赤ちゃんは、「ああ」と声をだして呼吸をはじめ、一度も泣きませんでした。しばらくして母子は部屋にもどりました。母親のおなかのうえにのせられた赤ちゃんは、やがてモゾモゾとうごきだしました。胸まで這いあがって、正確に乳首に吸いつきました。しばらくチュクチュクしていましたが、そのうち疲れたようで、くたんとなりました。母親も疲れていたので、わたしはここらで母子をねむらそうと思って、電灯をやや明るくして、へその緒を切りました。それから母親の横に赤ちゃんを寝かせました。そのとたんに、赤ちゃんはパチッと目をひらきました。顔をさっとわたしのほうに向けて目で会釈し、またさっと顔を母親のほうへ向けて目で会釈しました。そして目をとじて安らかにねむりにつきました。

 ――これはごく平凡な例にすぎません。もちろんケースバイケースですが、概して自宅で生まれた赤ちゃんはものしずかで、自覚的です。あまり泣かないのは、泣く必要がないからです。逆に、病院で生まれた赤ちゃんがよく泣くのは、つらいからです。生まれるまでや生まれてからの医療的な処置が苦痛であったからかもしれません。一時的にせよ母親から引き離されたせいかもしれません。寒かったり照明がまぶしかったり音がうるさかったりするせいかもしれません。泣きやまないのは、おそらく、あれやこれやで自尊心を傷つけられたせいでしょう。

 そうであるなら、新生児が泣くのをよろこんでみているおとなたちとは、いったいどういうひとたちなのでしょう。赤ちゃんのほうは生涯におよぶトラウマを負いつつあるかもしれないというのに。

さかのまこと

さかのまこと氏
自然哲学者。
慶応義塾大学文学部卒業。東北大学大学院博士課程修了。国語国文学を専攻とし、大学教授等を経歴。プレマ(株)代表中川のインドでの知己であり、常務佐々田の恩師でもある。また、生物学から宗教学にいたるまで幅広い関心領域をもち、夫婦だけで2人の娘のプライベート出産をおこなう。著書に『あなたにもできる自然出産―夫婦で読むお産の知識』等。