木村秋則宮古島講演会
「奇跡のリンゴ」で今や国内外に名を知られている木村さんが4月27日に来島されました。講演会は三部構成で第一部は木村さんの幼少時代から結婚し、リンゴ農家になり、不可能と言われていた無農薬栽培に成功するまでを描いた劇映画の上映、第二部は野菜果樹の自然栽培は食べ物にとどまらず、人を変え、社会を変え、全世界から争いをなくし、自然を地球を守る可能性を持っているとの木村さん本人の話、第三部は「水のノーベル賞」を受賞し、世界的に有名になった宮古総合実業高校環境班の生徒達の取り組みの紹介でした。予想以上の入場者数でした。それには私が「らくなちゅらる通信」を媒介として様々な分野の人達と交流を続けてきた事もプラスになったと思います。入場者の中で自然栽培や有機栽培に取り組んでいる生産者は極く少数でほとんどは非農家でした。私達は主催者に木村さんとの面会を申し込んだが実現せず残念。木村さんは宮古(島)での自然栽培は知らない様子でした。
古波蔵芳江さん収穫始まる
◎宮古黒アズキ(73号・74号で紹介) 普通9月で終わる収穫期を11月 まで延長した。
◎玉ネギの生長肥大は苗の植え 付け時期に大きく影響される 結果となった。
◎ピーマンは有機栽培と比較すると 木の成長があまりにも遅い。
◎ジャガイモは自家採種のための 試験栽培中です。
エコファーム「宮古島プラス」代表・与那覇晃規
「私が少年サッカーチームの指導をしていた時期は、学校は荒れ、子どもがキレルとか授業崩壊とかのことばがマスコミでもしきりに取り上げられ、社会問題化していました。常日頃、スポーツを通して接している子ども達と社会問題化している全体状況とのあまりのへだたりに驚き、その状況の根本にあるのは何だろうと考えるようになりました。行きついたのが『食べ物』でした。もちろん、それだけが根本原因の全てだとは思いません。ただ『食』は大きな比重を占めていると思います」。「食」の問題は何をどのように食べるのかだけでなく、生産、つまりどのようにしてつくるのかとの課題に突き当り、生産に乗りだす決心を固め、行政補助を活用した大型鉄骨ビニールハウス栽培を始め、EM農法など様々な有機農法を試み、それは今も続いています。しかし、最初から大きな壁にぶつかりました。その壁を乗り越える方法を見つけるだけの経験や知恵が圧倒的に不足していました。その壁は二つあり第一は栽培技術、第二は流通でした。もともと子ども達の食の問題から出発し、宮古(島)の人も自然も健康な島にしたいとの思いで始めた農業生産でしたが宮古(島)の現状はあまりにもひどかった。悩み苦しむ日々が続きました。「尊敬する自然農法の岡田茂吉さん、福岡正信さんの苦闘も実体験で理解できたと思う。木村さんの映画と講演には勇気をいただいた。今の自分の現状では本当によかった」と久しぶりに多弁になる晃規さんでした。特に感銘を受けたのは木村さんの人柄だと強調していました。全ての生けとし生けるものが共存するあり様を壊した張本人は人間であるが、今私たちにできる事はその現実を直視し、できるだけ自然の状態に戻す事が必要ではないのか? それは何もむつかしい事ではなく、今すぐできる事ではないのか、との木村さんのことばに再度自分の生きる方向を心に刻んだと話す晃規さん。与那覇政江さん「地元の農産物を食材として工夫加工する事によって生産者が楽しくなる農業の手助けをしたい」。藤内里美さん「有機農業流通販売の現場でこんなに大量の農産物が廃棄されている現状を変えたい」。
川平 俊男 1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。 |
プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト』 宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。 |