がん患者となった女医が、自身の治療を通して気づいたことやクリニック「真健庵」を立ち上げた経緯のお話
今春、晴れて還暦を迎えることができたことは、私にとって奇跡かもしれません。
10歳のとき、事故で頸椎損傷になり一時は半身不随で寝たきりかという状態から奇跡的に回復。
50歳で癌になりました。
早期発見ではなく進行癌でした。
自分でも薄々気づいていましたが、家庭と仕事の事情で精密検査に行く時間と心のゆとりがない状況でした。
癌とはっきりわかった時のショックは、文字通りガーンと頭を打たれたような衝撃でした。
現在、日本では二人に一人は癌にかかると言われていますが、それでもまさか自分が癌になるとは誰しも思わないはずです。
私もそうでした。
38歳の時、保険会社に勤め始めた友人のために、がん保険に入りました。
まさか、それが自分を助けることになるとは、友人も私も露ほども思っていませんでした。
上司の助教授に委ねられた経験
私は、もともとは放射線専門医で、大学病院時代は、癌の患者さんを受け持ち、抗がん剤や放射線治療などを行っていましたが、受け持った患者さんは、残念ながらどなたも帰らぬ人となりました。
私の上司であり、小さいころから父の病院を手伝っていただいていた放射線科助教授も癌になったのですが、助教授は駆け出しの研修医だった私に「主治医になって今できる現代医療のあらゆる治療を施してみなさい。
その中でこれはいいと思ったら教えてやるから」とおっしゃいました。
荷が重すぎるので、経験豊富な医師に頼んでくださいと、最初はお断りしました。
でも「純粋な気持ちで治療をしてくれる医者でないとだめだ」「責任は俺がとるから心配するな。
お前がいいと思う治療をしろ」と言われ、その時代でできる現代治療の最先端の事を必死で治療しましたが、結局、治すことはできませんでした。
最期、「血圧が下がりだしても何もするな。
自然に逝くから」と、にこりと笑って亡くなられた助教授の死にざまは、今も脳裏に焼き付いています。
本当に素晴らしい経験をさせてくださった助教授は、本当の意味での恩師です。
この経験は医者として方向転換する大きな出来事になりました。
患者さんの遺書に救われた経験
もう一つの大きな出来事は、大学病院で最後に主治医として受け持った肺がんの70代の男性の患者さんが亡くなられたことです。
自分の無力さに落ち込み、人を助けるどころか、今の三大治療をしていては人殺しを重ねることになる……と、医師として当時の医療を進んで行う自信が全く消え失せてしまいました。
再び勤務できるか悩み苦しみ、2、3日自宅で臥せていた時に、その患者さんの息子さんがわざわざ宮崎から私の自宅に訪ねて来られました。
お父さんが最後に力を振り絞って書かれた私への手紙を、どうしても渡さなければと、宮崎の埴輪のお土産と一緒に持ってきてくださったのでした。
その埴輪は今でも実家の玄関に、ずっと飾られています。
遺書には「ありがとうございました。
先生に最後を受け持っていただいてよかった。
どうか立派な医師になってください。
感謝。
これ以上はもう書けません」とミミズの這ったような字体で書かれていました。
読むなり大粒の涙が止まらなくなり長い間嗚咽しました。
魂を救われました。
やはり医者は辞められない、何としても癌の患者さんを治す方法をみつけたいと一念発起。
今、この世の中にあるあらゆる治療法を勉強して自分なりの治療方法を見つけていこうと決心しました。
とはいえ現代医学をおろそかにしたわけではなく、父に内科、外科、整形外科、皮膚科、小児科、救急医療など様々な分野を教えてもらいました。
父は戦時中軍医で、戦後は病院を開業し、救急病院として、家庭医として警察医として忙しく働いていました。
その父に特訓を受けながら、大学院に行き研究しつつ病院に勤務。
毎日息つく暇もないぐらい働いていました。
この経験が西洋医学の医師としての礎となり大変役に立ちました。
現在の医学教育は専門的になりすぎて、専門以外は診察できない医者がほとんどになっています。
全体で病気を診ることができる医者があまりにも少ないと感じるのは私だけではないと思ます。
クリニック真健庵 院長
医師 吉村 尚美(よしむら なおみ)
全人的医療を目指した自由診療のみのクリニックを開業。食事療法をはじめとし、腸内洗浄や遺伝子治療などの最先端医療を行っている。放射線科専門医、アンチエイジング専門医、サプリメントアドバイザー、メディカルアロマテラピストなど幅広い資格を取得。著書に『「平熱37°C」で病気知らずの体をつくる』など。
クリニック真健庵
〒108-0074 東京都港区高輪4-18-10
TEL: 03-6447-7818
土曜午後・日曜・祝日・休診(完全予約制)
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