前号では「自分の大きさは変わる」という話を書きました。「自分」についての考え方は、世界の認識の仕方に密接に関わります。今号では、このことについて書きます。
自分と環境の関係を「対立する」と見るのか、「一部」だと見るのか、二つの考えの間を人類は揺れ動いてきました。自分と環境を対立するものとする思想をもたらした一人として、哲学者のルネ・デカルトが有名です。有名な「我思う、ゆえに我在り」という言葉は顕在意識を最優先にした考え方といえるでしょう。
デカルトは最初、自分の感覚を疑いました。なぜなら、感じていることは夢かもしれないからです。いろいろなものを疑い続けたあげく、彼はこのような吟味をおこなっている自分の思考を疑うことができないと考えました。そこで「我思う、ゆえに我在り」が真理であるとしたのです。この考えを出発点として、人類は「思考しないものはすべて機械仕掛けのようなものである」という考えに至りました。それはさらに「思考しない人間以外はどう扱ってもいい」という考え方に発展します。それは神と人間の契約を重視するキリスト教に一致するためか、現在でもアメリカ、ヨーロッパ圏、さらにはその影響が強い日本などで主流を占めています。西欧圏では20世紀はじめに心理学者で精神科医のフロイトが無意識を再発見するまで、人がもっている意識はデカルトのいう意識のみだと考えられていました。世界的に見れば奇妙な考えです。日本でも古くからは、人の心を和魂、奇魂、幸魂、荒魂にわけて考えています。仏教では心の働きを、眼耳鼻舌身意や意識、末那識、阿頼耶識といった形で分類していて、顕在意識だけという考えはしてきませんでした。
しかし、物理的な分析においても、私が書いた一連のコラムにもあるとおり、人は潜在意識や右脳をもっており、その世界では自分と環境の境界はあいまいです。量子力学の研究者達の一部は「世界は仮想現実であるかもしれない、多くの現実があるのかもしれない」と考え始めています。そうすると辻褄の合わない現象の説明がつくそうです。いずれにしても、これらの話は私たちが孤立した存在であり、環境が偶然の産物であるという考え方を否定しています。私が長々といろいろな本の主張を引用してきた理由は、「私たちは世界の一部であり繋がっている」という考え方が説明がつかない現象を説明するために有効な考え方であり、顕在意識のエゴがもたらす思想を一歩抜け出すものだからです。
大昔、スプーン曲げやサイババが見せた物質化現象などの解釈は、現象と見ている人はまったく無関係であるという暗黙の前提があり、超能力、念力という見えない力で強引に変化をもたらしている、という考え方をしていました。しかし、現在は物理法則も同じ波動を共有している集団では同じ環境にいる、というもっと大きな考え方をします。
いろいろな例があげられますが、大規模なものとして「太陽の奇跡」をあげておきたいと思います。ポルトガルのファティマでの奇跡は有名ですが、1917年10月13日に起きた奇跡は、あらかじめ予言されていて10万人近い人々が目撃した事件でした。その日、聖母マリアが空中に出現し、太陽が空中をダンスするように動き、まばゆい光を放ったといいます。おもしろい点はその場に集まった全員が奇跡を見たわけではないのです。信仰を持った人たちのみが見ており、信じていなかった人たちは見なかったといいます。後年、物理的な説明の試みがなされていますが、それでは人によって見た見ないが説明できません。やはり同じ波動を共有した集団が見たものだと思われます。
この「波動の共有」ということを前提として、次号以降、関連コラムを書いていきたいと思います。