沖縄の宮古島に近い気候や植生を持った、異なる文化を持つ地域に積極的に出向くようにしています。そこで先日、台湾に行ってきました。今号では、台湾糖業博物館、旗山製糖工場跡、国立台湾博物館を訪問して感じたことや、台湾と日本が製糖において非常に深いつながりがあることをご紹介します。
台湾は大航海時代の欧州列強の植民地拡大政策の波に巻き込まれ、1624年からオランダ統治が始まりました。そして、同年には製糖業の量産が始まっています。台湾も日本も製糖技術は中国の福建省がルーツで、琉球に製糖技術が持ち込まれたのは1623年ですから、日本より随分と進んでいました。そうはいっても、サトウキビの圧搾作業に家畜を使うなどの当時の製糖技術は、1日あたり100kgにも満たない小規模な生産でした。
そして、1895年に台湾では下関条約により日本統治が始まりました。近代技術を導入した最初の大規模製糖工場として、橋頭製糖は1900年に1日に200トンの生産を開始し、1902年に本格操業を始めました。省エネで効率よくサトウキビジュースを濃縮できる多重効用缶や、濃縮した糖蜜を真空下で結晶化させる真空結晶缶といった当時最新鋭の技術が導入されました。これらは現在の宮古島の製糖工場で見られるものと基本的には同じものです。また当時の圧搾能力は、1日あたり3200トンにも達し、現在の宮古島の製糖工場と同等以上の生産能力を持っていました。畑から工場へのサトウキビの運搬用に張り巡らされた鉄道は総長3000km以上に及び、サトウキビ栽培や製糖用に灌漑施設の整備も併せて進められ、台湾に数十もの製糖工場が建設されました。
当時の旗山製糖工場周辺の地図には日本人の名前があり、現在の旗山の街並みにも日本建築(純日本様式ではなく、日本によって持ち込まれた西洋建築)の名残が見られました。
日本にとって糖業着手が悲願だったこと、そして台湾に期待を集中していた当時の日本の南進政策の一端を生々しく感じる訪問でした。
サトウキビの圧搾機:連続する巨大なローラーの間を通過させて圧し潰して搾汁する。橋頭製糖の工場跡地をそのまま活用した台湾糖業博物館内にて