コロナ渦での社会の硬直化は、過去に例を見ないほど深刻なものとなっており、人は未知のものに対してこれほどまでに恐怖を感じ、またその恐怖は事実を超えて伝播することが、日々明らかになってきました。
聡明な本誌の読者の皆さまは、一方的な情報源から距離をおいて冷静な判断をされていると信じていますが、メディアやネットに目を向けると、本稿でもくり返し警告してきたいわれのない差別や偏見があっという間に広がっていくさまを見聞することとなり、とても重い気持ちに襲われてしまいます。私がとくに心配しているのが、「専門家」という立ち位置の皆さんの発言であり、それを根拠にしたコメンテーターと称する「専門外の」皆さんの煽りです。それだけならよいのですが、そこには編集者や情報発信者の見えない意図が交錯し、ますますことの本質を見えにくくしてしまい、ほんとうの問題はなんなのか、私たちはいかに生きればよいのかを覆い隠している状況が起きていることです。
専門家依存症からの脱却
時事の出来事の報道において、あちこちに専門家という方が出てきていろいろなことを言い、それを聞く、見る人には金科玉条のごとく影響を発揮します。今回の新型ウイルスについていえば、政府や行政もまた「専門家のご意見をいただきながら」と言葉を濁しているわけですが、個別の専門家が絶対的に正しい見解を持っているという前提を聞く側の私たちがリセットしない限り、大切なことは見えてきません。
2011年を思い返せば、ある専門家は原発事故はたいした影響を起こさないと言い、ある専門家はとても深刻であると言います。このときには、政治的な意味合いでどのような主張を持っている専門家か、という尺度で誰を持ち出してくるかの意図がはっきりしていました。弁護士がたくさん出てくるテレビを見ていれば、法律の専門家たる弁護士であるといえど、違う見解を持っているいろいろな人がいることは明らかです。現在の法務大臣は弁護士資格を持った方ですが、法律の専門家たちから芸能人まで、一斉に異論を挟み阻止しようとした検事総長の定年延長問題のような、仮に多数の専門家を集めて多数決をしたとしても容認しがたいという結論が出るようなケースもあり、これも同様に為政者なり、それを許さない人の意図がはっきりわかるといえるでしょう。
しかし、自分の命がかかるような感染症のケースにおいて、専門家であったとしても現在進行形でよくわからないことがたくさんある事例であっても、聞き手の一部はみずからの命の問題と解釈できうる事柄になると、たちまち検証も精査もなく、より声の大きい方、より目立つ方が極端な影響力を持ってしまうことになるのは恐ろしいことです。どれだけ感染が怖いか、なにをしていても感染するリスクがこんなにあると散々聞かされた一方で、このような無理解な差別事例があると報道されても、まったく説得力を持ちません。人は原因を自分以外の誰かに求めやすく、意図しようとしまいとも見えない恐怖から、攻撃を繰り返してしまう心情を持ちやすいのです。「感染症の専門家だけで物事を決めると、経済が凍るので経済の専門家の意見を聞くべきである」という考え方も、私には理解ができません。経済の専門家であっても考えはそれぞれに違い、これはいろいろな専門家を連れてきて論議させれば、よりよい方向が見いだせるという誤解から私たちが脱却する以外に答えはありません。
つまり、答えは外側にはなく、私たちの思考力と判断力、倫理観など、私たち個人の内側にしかありえないということなのです。誰かが悪いからこうなったと世界中で言い合ったところで、よりよい未来はありえません。専門家に期待するべきは答えではなく、私たちに選択肢の提供をしてくれているに過ぎないと捉えることができれば、私たちの生活のなかでより豊かに生きる判断に活かすことができるのです。
私たちは、常に賢明であるべきです。炎天下のマスクで熱中症になって死んではいけません。かといって人混みでマスクもせず、くしゃみをし、大声で会話する自由はこの時代においてはありません。自宅に籠もって心を壊してはいけません。感染症の専門家や経済の専門家、法律の専門家などの話はあくまで事例と検討材料の提示であって、私たちはみずからの心身の状態に無関心であってはならないのです。見知らぬ人の陽性や陰性の情報に振り回されて一喜一憂せず、自分と関わりのある人、ない人の心と身体の健全さを保つ広範な努力が必要です。誰かが必ず正解を持っているという思い込みから自由になり、ひとりひとりが良心に基づいて個別の問題に向かい合っていく必要がある時代がやってきたことを受け入れるほかなく、これはむしろ私たちの個人としての主体性が発揮できる唯一無二の機会と捉えて、日々を前向きに生きていきましょう。