去年5月の季節外れの台風、10月末からの長雨、今年初めの日照不足により宮古(島)の農業は壊滅的打撃を受けています。被害総額は関連産業も含めて100億円以上だと思います。これは宮古(島)社会全体に影響しています。1972年の大旱魃以来だとの事ですが実際はそれ以上だと思います。当時は農業にあまり経費がかからなかったし、日本全体が高度成長の途上にあり、出稼ぎで稼ぐこともできました。むしろその方が収入は多かったし、農民も高齢化していませんでした。今年は宮古(島)社会は大不況に蝕まれると思います。
今回ご紹介するのは、「大陸的」、このことばがピッタリの久貝愛さんです。宮古(島)は人口5万5千人の小さい島ですが、文化的には大陸的雰囲気を持っていると言われます。戦後の一時期、宮古(島)を日本、沖縄から分離し、中国に帰属させる案が出てきたり、「宮古群島政府」ができたりとの事にも不思議と違和感はありません。四百数十年前、私の先祖は宮古島民の苦境を救うため刻苦奮闘していた時、修学のため中国大陸へ渡った事もあったとの事です。その後、16世紀末に砂川旨屋が中国大陸から甘藷(いも)を持ち帰り、島民を飢餓から救いました。いもの最初の伝来地は宮古(島)であり、私たちは甘藷を「サツマイモ」とは呼びません。また鹿児島でも「サツマイモ」とは呼ばず、「カライモ」と呼びます。
愛さんは埼玉県で生まれ育ちました。父は城辺の友利出身、母は伊良部出身です。幼少の頃から宮古島へ行く事が何よりも嬉しくてその度に自分の純宮古産の血が騒ぎ、2010年12月に宮古島へ移住しました。それまで愛さんは日々募る宮古(島)への想いを抑えていました。
念願の宮古移住であり夢も膨らみ何から始めようかと迷う程でしたが、思わぬ困難にぶつかってしまいました。父方の祖父母、母方の祖母の介護です。高校時代から、留守がちの母に代わり妹たちの世話をしながら、経済的には自立し、様々な仕事をこなしてきましたが介護は初めてでした。父の土木建設の現場作業、販売などのサービス業、健康食品の企画開発及び生産、リラクゼーションマッサージ等必要な仕事は何でもこなしてしまい、自分には何が合っているのかわからなくなる程でした。しかし、介護は戸惑いの連続でした。同時に3人の介護に直面し、振り回され、もともと陽気な性格でしたが笑顔も消えました。疲れ果て、落ち込む毎日の中でも、20歳から持ち続けている夢は諦めませんでした。幼少の頃からNPOやNGO活動も母と共に続けていたので宮古でも様々な取り組みを始めています。
3人の介護も落ちついてきたので自分の店づくりに取り掛かり、リラクゼーション&カフェを4月にオープンします。店名は「健康美カフェ&サロン徳得SHOP愛」です。店は宮古民謡「なりやまあやぐ」発祥の地、城辺地区友利部落にあります。なりやまあやぐまつりが行われるインギャーマリンガーデンも近くにあります。友利部落は最近まで養蚕が盛んでした。その建物を利用した手作りの店です。自然栽培のハーブや野菜をふんだんに活用し、宮古のオバアの味を受け継いだ健康パワー溢れるメニューを揃えますと愛さんはハリキッテいます。
愛さんは6人姉妹の長女で末っ子は小学1年生です。健康関係の仕事をしてきた3番目の妹真希さんは現在北海道で自然栽培に取り組んでいます。去年は大豆と小豆に挑戦しました。宮古に来た時に取材させてもらいました。「今年は他の野菜にも挑戦したいと思います。自然栽培の場合、F1種で大丈夫でしょうか?」等々、自然栽培を北海道で大規模に取り組む際の問題点について語っていました。本人も含めて、愛さんの家族の決断力、行動力には驚かされます。真希さん夫婦の北海道での農業開拓に2番目の妹一家(夫婦と子供5人)と愛さんの両親と妹3人が参加するため北海道に移住しました。両方とも他業種からの参入です。明治初期開拓時代物語の現代版です。愛さんの母親を中心に保育園を開き、いずれは学校=自然学校をつくる計画を持っているとのことです。
愛さんの祖父母の畑が宮古で4ヘクタールあり、北海道と宮古を継ぐ農業のあり方を模索しているとのことです。「宮古(島)を自然豊かな人情味溢れる素晴らしい島にしたい」と愛さんの夢はますます大きく膨らんでいきます。
パワフルで器用で愛くるしい愛さんは30歳、独身、花ムコ募集中です。愛さんの輝かしい未来に乾杯!!
川平 俊男
川平 俊男氏 1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。 |
プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト』 宮古島の自然農法を推進し、島の健全な地下水と珊瑚礁を守り、お客様に安心と安全を届けます。 |