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農業ルネッサンス元年

川平 俊男 (かびら としお)

1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

【Vol.74】宮古黒あずきは宮古の宝!!その2

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 豆類は穀類・イモ類と共に古くから栽培され、利用されてきた。マメ科植物は全世界で約650属18000種あると言われる。根粒菌と共生して空気中のチッ素を取り込み、乾燥に強く、それぞれの自然環境に適合し、世界中に拡がっている。その中で人間の食用種は約70種と言われる。日本で利用されているのはダイズ属、ラッカセイ属、インゲンマメ属、ソラマメ属、エンドウ属、ヒヨコマメ属、ヒラマメ属、ササゲ属である。アズキ種、ササゲ種、リョクトウ種は同じササゲ属である。
 宮古黒アズキはアズキ種ではなく、ササゲ種、正確にはマメ科ササゲ属ササゲ種黒アズキであり、普通のアズキ豆はマメ科ササゲ属アズキ種○○アズキである。産地も別である。アズキ種の主産地は北海道であり、ササゲ種は日本列島西南暖地が主産地である。宮古黒アズキはその名の通り、宮古(島)が主産地である。

 今では大手の種苗会社が「宮古島黒小豆」の商品名で全国向けに種豆販売をしている。しかし、それは私たち宮古(島)の生産農家が昔から自家用種を用いて栽培してきた豆ではない。サイズが少し大きく、私たちの豆はつる種で2~3m伸びるが「宮古島黒小豆」はつる無しである。当然ながら栽培方法も違う。私たちの豆はうね間2・5~3m、株間1・5~2mであるが「宮古島黒豆」はうね間0・7m、株間0・3mとなっている。「宮古島黒小豆」の説明文の中に「宮古島の在来種であり……」とあるが、私が調査した限り、宮古の畑では見られない。生産農家に聞いても誰も知らない。
 宮古と八重山の間に位置する多良間島では、島おこしをめざし、黒アズキの特産地化に取り組んでいる。多良間村役場の関係者によると、黒アズキの在来種は現在宮古(島)で栽培され続けられているつる種の豆であると言われた。種苗会社にはJAおきなわから種豆が出されたとの事。宮古黒アズキは「たらま黒糖」「たらまピンダ(山羊を沖縄語でヒージャー、宮古語でピンザ・ピンジャ、多良間ではピンダ)」につぐ第三弾!ガンバレ多良間!!

 宮古(島)では本土復帰前にはサトウキビ単作ではなく、数十種類の作物が栽培されていた。豆類は10種類ぐらいあった。いもが主食だったと言われてきた。私が小学生の時、学校給食は無く、家から各自いもを2個持参した。しかし、家庭ではいもが主ではなかった。また、いつもいもを腹いっぱい食べることは難しい。腹を満たしたのは豆類・麦・野菜などであった。それほど豆類と麦は各家庭に常備されていた。電気は無く、冷蔵保存はできない。保存できるものは豆類・麦・切り干し大根であり、にんにく・らっきょう・パパイヤなどの黒糖づけであり、野菜はそのつど畑から取ってきFood&AgricultureMIYAKOALTERNATIVEFARMオルタナティブファーム宮古黒あずきは宮古の宝!!その2た。大豆と麦(こうじ)と塩だけの宮古みそが、各家庭のンスゥグーイ(みそかめ置き場)にかめ2ツ3ツ分入っていた。酢・しょうゆ・食用油は種類も量も豊富だった。具材の組み合わせも変化に富んでいた。麦は石うすでひいて麦粉をつくり、様々な料理を工夫し、子でもたちのおやつもできた。子どもたちにとって豆類と麦は主食に近かった。そして黒アズキ入り黒糖ぜんざいの味は夢に見てよだれが出るくらい格別だった。黒アズキは大豆などのように常食はせず、祝い事や地域行事や季節の行事の時に使われた。十五夜の時につくるフキャギは子どもたちには待ちきれないものだった。もち(米が買えない家はいももち)に黒アズキをくっつけただけであるが黒アズキがとてもおいしかった。おばあが黒アズキを中に入れたお手玉をつくり、孫に遊びを教え、孫のお祝い事があるとお手玉の中の黒アズキを取り出し、フキャギでぜんざいをつくり、みんなで食べる習慣もあった。

川平 俊男

川平 俊男氏
1950年米軍統治下の宮古島で生まれる。家業は農業。自然豊かな前近代的農業、農村で育つ。69年島根大学へ留学。趣味は器械体操といたずらを考えること。70年代から親の家計を助けるため那覇で働く。「オキナワーヤマトユイの会」に参加し援農活動の受け入れ。「琉球弧の住民運動」事務局に参加し奄美琉球各地域島々の地域づくり島興し運動を支援。沖縄農漁村文化協会を結成し農漁業、農漁村の未来像の研究を続ける。宮古島に戻り農業をしながら自然塾を主宰し、農的学習法を編み出し、地域教育に取り組む。一方で農作物の研究および生産を始める。多くの生産者が作っても売れない事情を知り販路拡大の応援。95年ごろ「宮古の農業を考える会」を結成し有機農法の普及拡大と循環型社会づくり運動を始める。有機農法の限界に気付き、無農薬無肥料栽培に進む。10年前から親の介護を続ける。

プレマ株式会社の『宮古島プロジェクト
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- 農業ルネッサンス元年 - 2013年11月発刊 Vol.74

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