年末には全国高校サッカーや全国高校ラグビーが開幕し、年始には大学ラグビーの準決勝から決勝、そして東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)も開催されて、正月らしい気分で新年を迎えられました。
今年はスタジアムに観客が戻ってきたのが昨年と異なることでしょうか。箱根駅伝では今年の沿道からの声援は六十万人にのぼり、テレビ中継を観た人から「多すぎる」との批判が相次いだようです。十数万人だったといわれる昨年よりも「多い」と感じる人もいれば、一昨年までは百二十万人を超えていたのを知る人には「沿道の応援が少なくてさみしい」と映る。これまでの経験やどこを見るかの違いで、反応は真逆になってしまうこともあるのです。
現実としては、これまでのところスポーツ観戦で感染拡大は起こっていないようです。また昨秋に祭りを復活させた地域において、だんじりや神輿といった密な状況があっても感染拡大のニュースが流れることはありませんでした。実際に起こってもいないことを心配したところで、ほとんどは杞憂に終わるものかもしれません。
切磋琢磨の姿
「今年の夏は一緒に世界を目指そうな」。今年の箱根駅伝の一コマです。同じ区間を走ったランナー同士が、次のランナーに襷を渡した後に握手し合っていました。
ここでの「今年の夏」とは、七月にアメリカ・オレゴン州で開催予定の世界選手権のこと。他の大学に在籍するライバル関係、レースそのものはまだ動いているなかとはいえ、自分たちの役割を終えるや次に向けての目標を共有し合える。今日は異なるユニフォームで走っているけれど、夏には日本代表の同じユニフォームでともに世界に挑戦しようと思い合える。学生として所属する大学は別でも、視点を変えれば同じ学生であり、日本人としても同じ。しのぎを削り合い切磋琢磨していける関係になっていくのでしょう。
ノーサイド精神
禅に「隨縁」という言葉があります。私たちにはご縁があって、その縁に随って成り立っているということ。なにかを排除しようとすることで、その縁をも失くしてしまうということになります。ご縁があるから、私はいまここにいる。ご縁があるから、いま私の目の前に相手がいる。ご縁のなかで生かされていると感じることで、まわりの景色が変わってくるでしょう。
ラグビーでは試合終了を「ノーサイド」と呼びます。サイド(側)とサイド(もう一方の側)とを分けるものがなくなる(ノー)ということ。試合終了とともに、分け隔てるものがなくなって偏ることなく同じ「人」として尊敬し合う関係になるのです。
強い相手と弱い相手がいて、競争が成立する。女性と男性がいて、人間。国と国とがあって、世界。暗い夜と明るい昼があって、一日。寒い冬と暑い夏があって、一年となります。片方が良くて、もう片方が良くないということはないはずです。一方に寄ると片寄り、偏りとなって歪んでしまいます。とかく一方が良いと知るともう一方を排除しがちです。危険なものであっても、それを目にすることで自分のいるところが安全だと知り、安心を得られるものです。危険なものを見ることがなければ、自分が安全だと知ることもありません。体調にしても、好調なときと不調なときがあるからわかるものなのです。
また新型コロナウイルス以降、なんでも「殺菌、殺菌」といって菌やウイルスをすべて排除しようとするのが目につきます。それによって麹菌や酵母菌など、私たちの食生活を支えてくれている発酵に有用な菌まで減少させてしまいかねません。かたよらない心。ノーサイドの精神を持ち続けたいものですね。