「こんにちは」。数ヶ月前に飛び込みでやって来たセールスマンが再訪されました。「前回、丁重にお断りしたけどな」と思っていると、「今回は営業ではなく、患者として。今日か明日、できるだけ早いタイミングでお願いできませんか」と言う。
時間を改めて出直してもらうと、今朝からギックリ腰だとか。どうしようかと考えたときに、この鍼灸院が思い浮かんだということでした。市内の治療院だけでも何十軒も飛び込み営業をしたなか、自分が患者の立場になったときに信頼できそうだと思えるところは限られるようです。
飛び込み営業をしていると、相手にされなかったり、ぞんざいな態度を取られたり、いやな思いをすることも多いでしょう。そこで「信頼できそう」と思い出してもらえたのは、一人の人間として嬉しいことでした。
人の厚み
同じ人間として、とても敵わないと思うことがあります。秋から冬、春にかけては、各地でマラソン大会が開催されます。私も救護員として倒れるランナーがいないかと気を配ったり、走路員としてコース上になにか、だれかが跳び出してレースに支障がないようにと目を配ったりと、運営側で関わらせてもらうことがあります。驚くのは、ランナーのなかに「ご苦労さまです」「ありがとう」と、こちらにお礼をしながら走る人がおられること。30km以上を走り、ゴールまであと数kmというような場面で、自身の体力気力とも使い果たしているであろうに、人に感謝の言葉を伝えながら走っていく。私には到底できないと頭が下がります。
また、どこかのお店に入ったときに、店員さんに丁寧な言葉遣いをして、「ありがとう」と言葉をかけて店を出てくるような人には好感が持てます。自分もそうありたいと心掛けています。一方で、自分は客だとばかりに横柄な態度をとる人のことは信用できません。立場が逆転することだってあるだろうに、なにを基準にして態度を変えるのだろうと疑問に思います。自分の役に立つか立たないかを判断して行動する人。自分に関係のある話だけを聞こうとする人。自分に関係のない人には無礼な人。どんな話でも自分に関係のあることと思って聞ける人。自分に関係なさそうな人にこそ丁寧に接することのできる人。人それぞれです。
どんなことに対しても「やり方」に囚われているか、人としての「あり方」で生きているか、人間としての厚みのようなものは、そういう違いから生まれるのでしょう。
無事に貴く
子どものころ、人には親切にしなさいと教えられたものです。いまの子どもたちは、知らない人から話しかけられたら逃げなさいと教えられるのだそうです。おちおち道を尋ねることもできません。自分に関係ない人には無礼であっても良いと教えられた子どもたちが大人になったとき、どんな社会になっているのか不安になります。知らない人同士であっても、すれ違いざまに目が合えば、会釈するくらいのゆとりは持っていたいものです。
禅の言葉に「無事是貴人」とあります。「無事」は平穏無事のような意味ではなく、手放すほうが良いであろう心を手放した状態のこと。手放す心持ちとは、怒りや羨み、損得勘定などに囚われて求める心を表します。「貴人」は、悟った人、貴い人のこと。合わせれば、どんな事が起きても心を乱すことなく落ち着いて対処できる人でいられるという意味の禅語です。邪念をなくせば、心は平穏で安泰でいられるということです。とくに意識することなくとも勝手に体が動くような所作。そんな領域を目指したいものです。