ラオス、シエンクアン県のポーンサヴァンに滞在して1週間。2013年2月13日、シエンクアン県で不発弾生存者の支援をしている現地NGOの事務所でミーティングをしているときに、リハビリテーションセンターのスタッフから電話が入りました。「今、病院に不発弾事故に遭った患者が運ばれてきたから、すぐに来なさい。」ミーティング中だったので、すぐにというわけにはいかなかったのですが、シエンクアン県立病院へ駆けつけました。
病院に着くと、被害者は幸いにも軽傷だったので、ほっとしました。突然の訪問だったにも関わらず、被害者の方は、事故の様子を話してくれました。「今日の午前10時頃、穴に枯れ葉やゴミを集めているときに、その穴の中で爆発があって、負傷しました。」と病院のベッドの上で話すワンミーさん。49歳の男性です。「子どもは3人いて、シエンクアン県ノームボン郡チョン村に住んでいます。」事故は家の庭で、家からは約15m離れたところで枯れ葉やゴミを穴に集めて、燃やしている時に何かが突然爆発したそうで
す。爆発するまで不発弾があることを知りませんでした。怪我の状況はどうですかと聞くと、「左手の甲、腕、右足のすねなどに破片が飛んできて、怪我をしましたが、幸い頭や体は大丈夫です。左腕にはまだ痛みがあります。」と右手で指さしながら、痛々しい包帯の巻かれた左手と足の怪我の場所を教えてくれるワンミーさん。
シエンクアン県立病院で治療を受ける不発弾被害者ワンミーさん |
2日前にリハビリテーションセンターのスタッフの方に病院を案内してもらったときには、病院の廊下に張ってあった不発弾被害者の写真の痛々しさを見ていましたので、事故は軽い怪我で本当に安心しました。それらの写真では、クラスター爆弾の子爆弾が爆発した小さな破片が無数に体に刺さっている男の子や、内臓が出ているような写真もあって、すごいものでした。
話を聞き終わったときに、ご家族のおじさんが「事故の現場まで行ってみるか?」と声をかけてくれました。病院から家までは、1kmぐらい。車があるから、連れて行ってくれるとのこと。早速、事故現場まで直行しました。ワンミーさんを病院まで搬送してきた車で、県立病院のあるポーンサヴァンの街の中心部から車で10分ほど走った郊外の家に向かいました。事故現場に到着すると、まだ地面には、たくさんの血痕が残っていました。家の横にある庭には木が植わっていて、1m四方の穴が掘ってありました。その中、「枯れ葉やゴミなどを燃やして、約1.5mある竹の棒を使って、枯れ葉などを掻きいれていた。」とご家族の方が、実際にやってみせて、説明してくれます。事故に遭ったときには、その爆発が起きた穴から2mほど離れていたところに立っていて、その竹の棒を使っ
ていたので、怪我は小さくてすんだようです。爆発によって穴の周りにある木の幹や枝にもたくさんの破片が突き刺さっていました。その1つを掘り出してみると、5ミリほどの小さな鉄の破片が出てきました。恐らくアメリカ軍の戦闘機から撃たれた機関銃の弾丸の不発弾だろうとのことでした。この家のすぐ裏には、米軍の空爆によってできた巨大なクレーターが残っていて、池になっていました。裏山にはベトナム軍の兵士たちが駐屯していた場所があり、ベトナム戦争中は、激しい爆撃と戦闘が行われたとのことです。隣の民家ともわずか数メートル。ラオスの人々の日常の生活のなかに、不発弾がまだたくさんあるのです。
木に刺さった不発弾の破片を取り出した村人 |
シエンクアン県での不発弾被害者は、2011年31名。2012年は29名。これは県立病院に運ばれてきた被害者の数だけで、即死の場合や、県立病院に運ばれてこなかった被害者の数はカウントされていません。まだ被害者の数は減っていません。この2年間の数を見ると、半月に1回は不発弾事故がシエンクアン県で起きていることが分かります。冬は0℃前後まで冷えるシエンクアンでは、暖をとるためにたき火をしているときに、地面の下に不発弾があり、爆発するケースが非常に多いです。2012年は、実に20名がたき火によって被害に遭っています。ラオスの人たちが安心して生活できる社会を造るために、テラ・ルネッサンスでは、これまでの不発弾撤去の支援とともに被害者の支援を2013年に始めます。
江角泰(えずみ たい)
江角泰(えずみ たい)氏 NPO法人テラ・ルネッサンスのカンボジア事業担当者。 大学時代に、NGO地雷ゼロ宮崎のメンバーとして参加した「テラ・ルネッサンスのカンボジア・スタディツアー」が、テラルネッサンスとの出会い。 現在は、カンボジアにおける地雷問題に取り組む他、弊社が進めるラオス支援活動も担当中。 NPO法人テラ・ルネッサンス >> Premaラオスプロジェクト >> |