今年プレマ株式会社に入社した新入社員インタビューの第三弾は、来年オープン予定のビーン・トゥー・バーのチョコレートショップ「プレマルシェ・カカオレートラボ」のチーフを務める中川愛さん。代表・中川の長女でもあります。「父と一緒に働くことは考えていなかった」と話す愛さんに、これまでの道のりと今後について伺いました。
プレマルシェ・カカオレートラボ チーフ
中川 愛 (なかがわ あい)
1996年、インド生まれ。帰国後は男の子と外を駆け回る活発な幼少期を過ごす。小学校では勉強が嫌いで宿題をほとんどしなかったため、3年生のときに「忘れ物クイーン」の称号を得る。小学4年から中学までをかつやま子どもの村小中学校で、高校はきのくに国際高等専修学校で充実した学校生活を送る。立命館大学を卒業後、母校のかつやま子どもの村小中学校で教員を務め、2022年プレマ株式会社に入社。
激動を乗り切った
子ども時代
——プレマはサンスクリット語で「神聖なる愛」の意味。愛さんの名前もインドに関係があると聞きました。
両親が数年かけてアジアを旅していた時期に、私はインドで生まれました。日本人の助産師さんが取り上げてくださって、設備などなにもない所だったので、近くの郵便局から郵便用の測りを借りて体重を測ったそうです。当時、霊的指導者のサイババがいる聖地の近くに滞在していたので、せっかくならと名づけをお願いしに行ったところ、「With Love」の名を授かったので、それを略して「愛」になったんです。
——どんな幼少期を過ごしましたか。
京都市内の保育所などに通いながら、木に登ったり、高い所からジャンプしたり、とにかく体を動かして遊んでいた記憶があります。男勝りで、宝探しなどの遊びでも我先に取りに行くタイプでした。小学校に入学してからは、勉強が嫌いで宿題はほとんどやりませんでした。3年生のときに転校して、そこでも宿題をしなかったので「忘れ物クイーン」と呼ばれていました。でも自分が問題児だという自覚はなくて、クイーンだからむしろ名誉なことだと思っていたぐらいなんです。音楽が好きで、九九は歌で覚えられるので得意でした。通っていた公文では、足し算・引き算の問題でかけ算の答えを書いたりして、かなり自由な子どもでしたね。
学校では友だちもできて楽しく過ごしていましたが、父からこんな学校もあるよと、かつやま子どもの村小中学校の話を聞いて、4年生から転校することにしました。最後にみんなからもらった寄せ書きに「短い間だったけどありがとう」と書かれていたのを見て、みんなにとって私は一瞬現れてすぐに消えていく人間なんだなと、子どもながらに感じたのを覚えています。幼少期は父の仕事の都合で何度か引っ越しをしたので、幼馴染がいる友だちを羨ましく思うこともありましたね。
——小学4年生で親元を離れての寮生活は、寂しくなかったですか。
最初は週末家に帰るのが待ち遠しかったです。夜寝る前に寂しくなるけど、同じ部屋の小1の子が大泣きしていたので、私はこっそり隠れて泣いていました。学校生活は、友だちと馴染んでからはすごく楽しくなりました。その反面、同じころに両親が離婚したことで、つらい気持ちも抱えていましたね。両親それぞれから聞く話を一人で抱えきれず、かといって誰にも相談できなくて。そのときに抑え込んだ気持ちを長い間引きずって、大人になってからも時々急につらい感情に襲われることがありました。今思えば、学校という第二のホームができたので、あのときに両親と離れて転校したのはよかったと思います。
——子どもの村はユニークな教育法で知られています。なにが面白かったですか。
自分の興味のあることについて体験を通して学ぶ「プロジェクト」という授業です。私は木工のクラスを選んで、毎日滑り台や忍者屋敷などを作っていました。自分がやりたいことを探求できる環境なので、自発的に学ぶし、学ぶことが楽しいんです。どんなことも子どもたち同士で話し合いをして決められます。学校の周年記念で文集を作ったときに、私は「前の学校はただ楽しいだけだったけど、今の学校は毎日が充実しています」と書いていて、それが当時の素直な気持ちだったのだなと思います。
ライフワークに
出合う
——中学校ではなにに打ち込んでいたのですか。
演劇です。演劇の舞台は人と一緒に創っていくものなので、人との距離感や意見の違いなどでぶつかることが多かったです。思春期らしく人間関係でたくさん悩みましたが、みんなとは本番が終われば「すごく楽しかったね」と言い合える関係でした。あとは、父が会社で取り組んでいた、ラオスの不発弾撤去や学校設立プロジェクトなどの社会課題にも興味を持ち始めて、私なりにラオスの国や少年兵について調べるようになりました。
——お父さんとそれについて話すこともありましたか。
長期休暇のときは父が福井まで車で迎えに来てくれていたので、移動中によく話をしました。私は父に褒められたくて調べたことを意気揚々と話すのですが、これはこうだと、いつも正論で返されてしまうのでガッカリしていましたね。意外に思われるのですが、私は父にあまり褒められたことがないんですよ。物質的にも決して甘やかされなかったし、今ではその厳しさが父なりの愛情表現なのだと受け止めていますが、心の奥底ではずっと、甘えたい気持ちもあったように思います。
——高校はどのように決めたのですか。
初めはイタリアに行く予定でした。父がお世話になっている占い師さんに私も見ていただいたら、手の指が長いから工業デザイナーに向いていると言われて。それを聞いて父が、イタリアのミラノは工業デザインの最先端だから、その勉強をしたらどうだと提案してきたんです。私も留学は楽しそうだなと思ったし、ほかにやりたいこともなかったので、賛同しました。そこで中学3年生の秋に、父と二人でイタリアに下見の旅行に行きました。観光しながらオーガニック関連の店や工業デザインの博物館などを見て回って、それはそれで楽しかったんですけど、旅の終わりに、私も父も今じゃなくていいねという考えで一致したので、一旦リセットして帰国しました。もう進路を決めないといけないギリギリの時期で、私は子どもの村が大好きだったし、イタリアに行かないなら関連校がよかったので、きのくに国際高等専修学校を選びました。
——高校生活はどうでしたか。
専修学校では、普通高校よりも自由にカリキュラムを組むことができるのが魅力的でした。たとえば、歴史では日本史、世界史、近現代世界史があり、芸術では演劇や陶芸、映像など多様な科目があり、自分の興味に従って専門的に学べます。私は初めは日本語や日本史を学んでいたのですが、あるとき、近現代世界史にも興味を持ち、授業を受けてみました。そのときのテーマが「非暴力」で、そこで初めて東ティモールの歴史を知りました。それは人生を変えるぐらいのインパクトがありましたね。それまでは、独立戦争なんて教科書のなかの古い話だと思っていたけど、東ティモールのあの残酷なできごとはつい最近のこと。私が生きている時代に独立をめざして戦った人たちがいるということがショックで。その後、学校の制度を利用して現地へフィールドワークに行ってみると、会う人会う人みんなすごく優しいんですよ。物質的に豊かでなくても、あんな悲惨なことがあった国だとは思えないぐらい、みんな楽しそうに生きている。今となっては、平和に暮らせる毎日が当たり前ではないとわかっているから、毎日に感謝し、毎日を大切に生きている人たちなのだなとわかるんですけど。それ以来、東ティモールのことを一人でも多くの方に伝えることが私のライフワークになりました。大学生のときにはNGOのピースウィンズジャパンのインターンにも参加し、現地のお母さんたちとコーヒー豆の選別などをおこないました。結局、私は小中高と3年ずつ子どもの村の学校に通いましたが、年齢的にも高校生活が一番濃厚でした。友だちとはよく喧嘩もしたけど、すごく深い関係で。くだらないことから政治や平和といった真面目なことまで語り合って過ごせたのは貴重でした。いまでも付き合いは続いていて、高校では一生の友達ができたといえます。
父の仕事と
深くつながる
——大学生活はどうでしたか。
それまでの環境と違いすぎたのか、大学自体はあまり楽しめなかったです。学校以外では東ティモールのブログを書いたり、NPOを作ろうとしたり、なにか意味のあることをやろうと模索していました。高校の同窓生たちはすでにいろんな活動をしていたので、私も早く目に見える成果を残さなきゃという焦りがあったと思います。アルバイト先は、イギリスで平和学を学んだオーナーがやっているちょっと変わったレストランで働きました。そこでは気の合う友だちができて楽しかったです。
——卒業後は初めから教員をめざしていたのですか。
4回生のときの教育実習では、母校で教員になった場合のことを実感できたのですが、卒業後は大学院で東ティモールの研究をする予定だったので、すぐに教員になるつもりはありませんでした。でも実習の後で、先輩教員の方に、ちょうど教員を探している状況で、私なら適材だと思うからと声をかけていただいたんです。迷いましたが、東ティモールの勉強はこの先いつでもできるし、今私を必要としてくれていて、しかもずっとお世話になっていた母校での困りごとが解決するならと、急遽教員になることを決めました。就活は一切していませんでした。考えてみると、私は受験や就活などの世の中の人たちが通過するがんばるポイントを経験したことがなく、自然な流れで進むべき方向に進んできたと思います。
——教員としての日々はどうでしたか。
子どもたち一人ひとりと向き合うのはハードですが、すごく充実感がありました。自分でいうのもなんですが、子どもたちみんな「愛ちゃん、愛ちゃん」と懐いてくれて、私のことが大好きだったんです。私は両親の離婚をきっかけに、どこか自分の存在価値を確かめようと生きてきたところがあるので、子どもたちにあれほど必要とされることで、私も満たされていました。それから、食のクラスを3年間担当したなかで、子どもたちの食に対する貪欲さや執着心を肌で感じて、あらためて食の大切さに気づかされました。子どもたちには安全なものを食べてほしいとの思いから、私自身も食に対して以前より意識的になりました。
——それが、プレマでの新しい仕事につながっているのですね。
正直、それまでは父の仕事に対していい印象を持っていなかったので、父と一緒に働くことはまったく考えていませんでした。そのせいで家庭が壊れたんじゃないかという思いもあったし、ジェラテリアの開店時などは休みなしで手伝わされて、都合よく使わないでと思っていましたから(笑)でも、父から開店計画が保留になっているチョコレートショップの話を聞いたときに、私自身について色々と頭を駆け巡りました。子どもたちに気づかされた食への思い。書くことや歌うことなど、表現するのが好きなこと。さまざまな国の人たちとコミュニケーションを取るのが喜びであること。私は子どもの村で育った影響か、やりたいことがすごく多い人間なんです。プレマルシェ・カカオレートラボなら、食のものづくりを通して、海外に行って生産者の方たちとコミュニケーションを取ったり、さまざまな形で食の大切さについて伝えたり、東ティモールのコーヒーをお出しして多くの人に紹介することもできる。考えるほどに、私のやりたいことにつながっている仕事だと思ったので、私から手を挙げました。
——ポストとして空いて待っていたんですね。プレマについての考えは変わりましたか。
それまでは、体にいい商品を販売しているという程度の認識でしたが、入社して大きく見方が変わりました。商品を販売したその先の、お客様の人生に寄り添うための事業だということを実感したんです。お客様が手にする物やサービスをきっかけに、自分自身や大切な人を大切にできる社会をつくるということ。すべてはそこから始まり、今に至っていることがわかり、初めて父の仕事に対して深く共感しています。カカオレートラボのチーフとなり、プレッシャーもありますが、それよりも楽しみのほうが大きいですね。私なりにプレマにしかできないチョコレートづくり、お店づくりを形にしていこうと思います。
※中川愛さんがかつやま子どもの村小中学校で教員として過ごしていた日々については本誌バックナンバーのコラム「自由教育ありのまま」(151号〜174号)、また2022月1号の特集「体験から学ぶ子どもたちの京都パン作りの旅」をご覧ください。