「食」の大切さを「いただきます ごちそうさま」という歌や絵本で、アトピー性皮膚炎のつらさを漫画で、わかりやすく伝える活動をしている関愛子氏。ご自身が重度のアトピー性皮膚炎に悩み、それでも働き続けて強制入院やうつ病併発のあと、ステロイドも効かなくなり、そこから食生活などで改善してきたそうです。当事者としての経験、感じてきた想い、これからの展望など伺いました。
株式会社関わり 代表
関愛子(せき あいこ)
1986年 静岡県生まれ、埼玉県育ち。 幼少期からアトピーに苦しむ。20代で強制入院、30代でうつを併発、ステロイドさえも効かなくなる。その葛藤をTwitter(@goodbye_allergy)で発信したところ 1年でフォロワー1万人超え。10年勤務した大手金融機関を退職し、令和元年「株式会社 関わり」創業。オーガニック農家と連携し、環境保全の活動に取り組む。また、ライフコーチとして講演をおこなう傍ら、フォトグラファーとしても活動中。https://kakawari.co.jp
痒みも痛みも感じないよう
感覚を閉ざしていた
——アトピー性皮膚炎のつらさ、記憶にあるのはいつごろのことですか?
幼稚園のころです。最近思い出したのは、病院に連れていかれたときに「早く治さないと痕が残ってしまう」と言っていた母の姿。そして、お泊まり保育で痒くて掻いて白いシーツを血で汚してしまって、それをだれにも言えなかったこと。どうしよう、怒られる!と思ったのが最初のショックな記憶です。症状が悪化したのは、管理栄養士だった母が働き始めた小学4年生のころ。お弁当や惣菜を買うことが増え、母親が留守がちなことを不憫に思った祖母がお菓子を買ってくれるようになったのです。腕や膝の裏などに症状が出るようになったので、半袖や短いスカートを避け、なるべく隠したいと思うようになりました。副腎の疲労が始まったんだと思います。それまでは勉強もできていたのですが、頭の回転が遅くなり、無気力で積極性がなくなりました。卒業文集は小学校での楽しい思い出がテーマでしたが、家で飼っていた猫のことぐらいしか思いつかなくて。アトピーの症状が辛いこと以上に、心がずっと無気力でなにをしても楽しくなかったんです。そのころ両親が隣の部屋でよく喧嘩をしていたこともあり、その声が聞こえないように、肌の痛みを感じないようにと、感覚を閉ざしていたんでしょうね。掻き傷が恥ずかしいもの、隠すべきものと思っていたのもあるかもしれません。だれかに相談することさえ思いつかないほど心にゆとりがありませんでした。
当時は当たり前のように薬を塗っていました。小さいころからずっと同じ病院にかかっていて、そこで処方された薬を使い続けていました。根本的に薬が効かないことには薄々気づきつつ、それでも使い続けて、しまいに真っ赤になって、この病院では手に負えないということで、大学病院を紹介されて行きました。それが25歳です。医師から食に関するアドバイスはされたことがありません。食のアレルギー検査もしたことがありませんでした。大学病院に行くと強制入院になったのですが、どうやらステロイドの使い方をマスターするための入院だったようです。ステロイドはいかに安全か、どういうタイミングで塗るか教育されました。
——今から10年ほど前のことですよね?
はい。当時の大学病院はそういう見解だったようです。病院食にも小麦や玉子、ジャムなどが出ていました。日光アレルギーが出るから日に当たってはダメ、汗をかくので歩いてはダメ、湯船に浸かることも禁じられシャワーだけ。入院中、掻き傷が痛すぎて涙が出てばかりで、精神病棟に行くことを勧められましたが、結局、精神薬は飲みませんでした。アトピーの人って心まで病んでしまうんです。退院するとき、ある看護師さんがそばにきて「あなたがあなたのお医者さんになるのよ」と、こっそり言ってくれました。その方も従来の西洋医学による処方に疑問を感じていたのかもしれません。退院後、心身のために瞑想などをしてみたほうがいいのかもしれないと思い立ち、瞑想合宿に行ったり、滝行をしたりということを始めましたが、仕事は続けました。入院して休んだことでステロイドが効くようになったので、また仕事をがんばってしまったのです。アトピーは骨折などの怪我ではないので、働けてしまう。だから、入院するほどひどくなるということもあまり知られていないんです。
アトピー性皮膚炎は
「個性」だと気づいて
——ずっと同じ仕事だったのですか?
はい。損害保険会社の海外旅行保険の部署で欧米やアジア、オセアニアなどの現地スタッフの教育を担当していました。海外の医療制度に関わっていたので、日本との差を感じていました。いわゆるホワイト企業で、ほぼ毎日必ず定時の17時に帰ってました。周囲には「契約件数も多いのに、すぐに帰ってしまう人」と思われていたようです。実際には昼休みは休憩室で寝込み、家に帰ると寝てしまう状態。体調もよくないから人に優しくできない。どうしてみんな笑って過ごせるんだろうと思っていました。でも、人が嫌いだと思われていたのか人間関係も大変でした。
結局、ステロイドが効かなくなってしまい、アトピー仲間の友人に話すと「副腎疲労って知ってる?」と病院を紹介してくれました。全然知らなかったので驚きました。アメリカの医療を取り入れ、食事指導もしてくれる自費診療の病院なので高額でしたが、命には変えられません。それが、食や副腎疲労などに関する情報のとの出合いであり、分子栄養学の先生との出会いでした。初めて診察を受けたとき、自分の症状を喋っていて涙が止まらなくなりました。自律神経失調症と診断され休職するよう言われました。その後、10ヵ月間休職しました。
——「食」はどのように変えましたか?
副腎を刺激しないようにということで、グルテンフリー、カゼインフリー(乳製品)、シュガーフリー(特に白砂糖)、食品添加物やカフェイン抜きを始めました。いわゆる遅延型アレルギーの検査で米も相性がよくないとわかり、一時期はキヌアを主食にしていました。腸内環境が一般的なレベルの1/6まで低下し、玄米を消化できる力がなかったらしいです。玄米菜食が合うのかどうか、自分の身体と対話するのも大切だと感じました。現代の子どもたちも、そのレベルなのかもしれません。一般的に身体にいいということを鵜呑みにするのは危険だなと思います。農薬や遺伝子組み換えなどの問題だったりもしますが、いずれにせよ「根源を見つめる視線」が大切だと思います。
休職して3ヶ月目に少し元気が出てきたころ、経営の神様と云われる経営者の方に相談に行きました。こんなに入院して会社に迷惑をかけてしまって、こんなに治療費をかけて、親族の学費を払っていたので自分の貯金はもうないし、どうして私はこんな人生なんでしょうね……と話したら、「それはすごいことだよ、個性なんだよ」と言われて驚きました。初めてオリジナリティーだったんだと気づきました。
趣味のフォトグラファーの仲間から、そのタイミングで、SNSのフォロワーが70万人いる人のセミナーに誘われ、Twitterのやり方を教わりました。講習にお金を払ったし時間もあったので、Twitterを始めてみました。アトピーで辛かったこと、日本人の努力を美学とする精神論への疑問、臓器の疲労によって心の栄養を奪われていること、臓器の疲労は個人ではなく社会構造的な問題といったことを発信しました。病状について自分を責めてしまう人が多いので、社会構造にも原因があることを伝えたかったのです。病院に行くたびに先生や管理栄養士さんに教えてもらったことを、言語化してほかの人でもわかるように発信しました。1ヵ月に千人ずつフォロワーが増えて、10ヵ月で一万人ぐらいに。こんなに困っている人がいるのなら発信しなければと思いました。そして、一度も職場に戻ることなく会社を退職したのです。
——愚痴ではなく情報発信なんですね?
自分の肌に張りついている不快感、痒み、それはとても辛いことのはずなのに、周囲も軽く見るし、当事者も痒いだけだから我慢しなきゃと思ってしまう。そういう人の役に立ちたかった。SNSで発信しつつ、ビーガンの腸内環境専門の先生のセミナーや、ビーガンの料理人の料理教室など開催しました。また、20代女子向けに体験談を話すお話し会を開催し「彼氏ができて、もし肌がアトピーで黒いことについて聞かれたら、どう答えますか?」といった悩みに答えていました。
コロナ禍では、アトピー性皮膚炎の当事者の辛さを知ってもらうための漫画を制作しました。アレルギー対応のジェラート屋さんが漫画で広告を作っているのを見て、アトピーも漫画なら伝わるんじゃないかと。オンラインでのお話し会で「ステロイドすらきかなくなった私の治療法」というタイトルで、私の診断結果や、どんな処方をされたかを公表したりもしました。
昨年3月には「あれらぼ(Allergy life design 研究所)」を立ち上げました。ここでは単に、当事者や家族が生きやすくなるための意見交換だけではなく、それぞれが暮らしのなかの「あれ?」と疑問に感じることを話せる場を提供できればと思いました。また、オンラインサロンを立ち上げて活動を開始。「プラネタリーヘルス」といって、人も地球のシステムの一部であり、人の健康は地球の健康(環境問題を含む諸問題)と深くつながっているという考えについて詳しい先生や、古神道に携わるカイロプラクティックの先生などに話を伺いました。
オンラインサロンのメンバーたちと一緒になにかしたいということになって、その一つが歌を作ることでした。サロンの収益は私個人のためではなく、歌を作るための軍資金にして、収録をアメリカのボストンから中継してもらうなど、みんなで作る歌にしたかった。歌を、植田あゆみさんにお願いしたら、バークリー音楽大学の友人に相談してくださって、曲ができあがりました。この歌には未来の子どもたちに「自分のことを知ってほしい」というテーマがあります。国際的な感覚を育てていく時代、バークリー音楽大学卒業後、アメリカで歌手として活動するあゆみさんはぴったり。『翼をください』という歌のプロモーションビデオで、彼女は約50カ国の人と一緒に歌っている。その多様性を受け入れる力は、食べられない食材がある人たちを受け入れる力と共通していると思ったのです。
「食」をクリエイティブに
楽しめるしあわせ
——活動からどんなことを得ましたか?
生きるのが楽しいということです。朝起きて、今日も痛いな、だるいなと思っていたのが、幸せだなと思えるようになった。いいものを食べて元気に暮らして内臓機能を高めれば、人間は活性化する。「食」についていろいろあきらめていたけれど、クリエイティブに楽しむことにシフトできました。
——今後はどうしていきたいですか?
目指すのは医療費が食費に流れる社会構造ですが、まず子どもたちが生きやすい社会を作りたいです。フィンランドでは、保育園の園庭を、森の土や植物のある自然豊かな環境に変えたところ、免疫機能が改善したという研究結果もあり、そういったコミュニティ文化を作りたいです。それぞれが自立して、自分で考えて行動する。具体的には、土に触れる。地球環境を考える。そして、自分の心身に目を向ける。私たちが百年後を考えて動いていかないと、すべてが狂っていくのではないかと思います。もっと、それぞれが、自分らしく生きる社会になってほしい。どんなに「食」に意識を向けても、最後はメンタルだと思うんです。
今、社会問題について専門家がそれぞれ専門分野に特化している状態です。専門家を含む人と人が関わり、新しい知識、異なるジャンルがコラボし、社会全体で課題解決に導くことが大切ではないでしょうか。たとえば菌の研究についても、土壌において進んでいるわけではなく、動物におけるリスクヘッジや、気候による変化を数値化、定量化するのはやはり不可能で、人間が研究できる範囲に留まっています。数値に頼らず、仮説を持って生きる「未来学」の視点が大切だと思います。科学の最高峰といえば天文学だと思いますが、天文学者に聞いてみたところ、現在解明できていることは約1%。ということは99%の可能性がどこかにあるはずです。みんながそれぞれ本当の意味で自分の中心を感じ、自分の魂を生きることで、なにを選ぶべきか、自然にわかるようになっていく。そうなれば、百年後のことなど考えなくてもよくなるのかもしれませんね。
※歴史上の状況を踏まえ未来がどう変わっていくかを調査・推論する学問分野