前回、口蹄疫のことについてお話ししたが、その後少し明るいニュースがあったので後日譚(ごじつたん)としてそのことをお伝えしながら話を進めておこう。
今回の口蹄疫の件では色々勉強させられた。
一番印象の強かったのは殺処分される家畜に対する憐憫の情の欠如である。20万頭の肉牛がわけも分からず殺され、埋められるという光景を想像しただけでも恐ろしい思いがする。一頭で400kgはあるだろう。50kgの体重の人間8人分、20万頭で160万人分である。
生まれながらにして殺される運命にある家畜に対して、私たちのいのちを紡ぐ食料になってもらうことに対する有難いという思いや、同じ生命体としていのちに対する憐憫の情の欠如に暗然たる思いである。聞けば、口蹄疫に対する自薦、他薦の対策が殺到したとのこと。
私と同じ思いの人々が多く存在することに安堵をおぼえたが、行政という無人格、無機的組織が国の政を司っていることを今更ながら思い知らされた。
たまたま、知り合いだった文部大臣に何とかならないかとお願いし、文部政務官を通して農林水産省所管の独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構の動物衛生研究所に口蹄疫ウイルスに対する竹酢液の効果について試験をするよう申し入れたがここではやらないとのこと。口蹄疫に対する根本治療が未だに確立されていないのであるから、唯一、口蹄疫ウイルスを管理している動物衛生研究所で調べてもらえればはっきりするだろうと考えたのだが大きな間違いであったようだ。それでは、何のために存在する研究所なのか不思議に思うのは当然だろう。動物衛生を研究する組織がこのように無人格、無機的になっているのであるからお手上げである。文部省という別の省庁からの依頼は縦割り行政の中ではまったく機能しないという現実を具体的に思い知らされたのであるが、これでは、行政の改革を旗印に政権与党になった民主党の面目は丸つぶれである。恐らく、各省庁の担当大臣も行政官の強固な組織に対してよほどの執権を持たない限り行政組織の掌で踊らされているだけで、自民党政権時代とほとんど変わらないという現状を垣間見た思いである。
そこで、川端文部大臣は執権を行使して、竹酢液に特定して口蹄疫に対する病理学的な研究を進める気のある大学があれば予算を付けるという通達をいくつかの大学に出してくださった。このような、個別の案件に所轄の大臣が直接命令するのは異例中の異例であるが、これが本来の政治というものであろう。幸いな事に、私が在職していた京都大学生存圏研究所が手を上げてくれ、一歩前進である。竹酢液の組成分から考えて、病理学的研究成果は100%成功すると考えているが、200種類以上の多成分系からなる竹酢液の各成分が複合的・総合的に作用するような混合物の作用機序を明らかにするのは、現代の自然科学が最も苦手とする領域である。過日、この問題に取り組む準備をしているという報告に来てくれた生存圏研究所の所長もこの事をよく理解しておられたが、挑戦してみますとの事。有難いこととお礼を申し上げておいた。無明の闇で一筋の光明である。
昔、城山三郎という小説家が、政治家として備わっていなければならない資質として、高感度、高感性、高淡白の三つを挙げていたことを思い出した。今回の出来事は、正に政治家の高感度、高感性が発揮された好例であろうと大臣に深く感謝したい。
この高感度、高感性、高淡白を人格として備えるための「ゆりかご」になるのが情緒であると私は考えている。「生物経済学事始」にも書いておいたと思うが、政治は経世済民、すなわち経済そのものであり、国家経済を経営するのが政治家である。国家経済は、公的利益の追求であるから、自国のみならず地球全体を視座に置いた、まさに地球上全ての生命体の共存共栄を図る目的を持たねばならない。しかるに、先の自民党も今の民主党もまったく同じ体質で、国家経済を経営するという高邁な精神が欠如している。これこそこの精神の核となるべき情緒が欠落しているといえるのではないだろうか。
過去に、イギリスで起こった口蹄疫被害は金に換算して1兆4千億円だったそうである。
今回、竹酢液の口蹄疫に対する病理学的研究に10億円を投入したとしても、イギリスの被害額の0・07%の投資である。これが国家経済を経営するということではないだろうか。
目先の大衆迎合的なバラマキで政治が出来ると思っているレベルの低さはただ事ではない。
今回の小文のテーマの重要性を今更ながら噛み締めている今日この頃である。