昨今、巷にあふれているのは子どもの虐待、殺傷。分単位の離婚劇に加え草食男に肉食女、女性の自己組織化と男性の自己組織崩壊。その一方で、子どものペット化と過保護による子どもの自立障害、自我の形成不全。これらの相乗効果の結果としての学校崩壊。少し大袈裟かもしれないが、これらの情報はほとんどマスメディアから知り得た一部のものと考えると、実際はもっと深刻な社会現象と捉えるべきではないだろうか。
「生物経済学事始」の中にも書いておいたと思うが、先進国で大都市圏に生活する現代人は自我の世界にますます埋没してきたように思える。先ず「己」ありきで、己の快適性、快楽を邪魔するものは全て否定しようとする風潮が顕著になりつつある。この風潮は、産業革命以降の西欧において「個」の確立、「自我」の形成という形で広がってきたのであるが、日本の風土、民族性には馴染まない考え方であるにもかかわらず、戦後の物質文明のメガ・トレンドの中で我国にも浸透してきたようだ。そもそもこのような思潮は、文明的存在としてのヒト属(ホモ・ストレシス)のみに特化して現れるだけで、生物の中の動物の一種であるヒト属(ホモ・サピエンス)の時代ではこれほど露骨には見られなかったように思う。自然の脅威にさらされながら集団で助け合って生き延びる過程で、人類は「思いやり」「やさしさ」などを司る前頭葉の情緒中枢を発達させ、知情意を調和させてきた。自然界は我々にとって脅威ではあるが、いのちの糧を与えてくれる大切な存在だけでなく、この世界と直接関わることによって他の生命への畏敬の念や憐憫の念を体得させてくれる、言わば「情緒のゆりかご」のような存在であった。
しかし、現代のホモ・ストレシスは生まれ出た時から人工の環境で育てられ、いのちの糧までも人工食品を与えられて育つのである。自然との関わりを剥奪されることによってどのような結果が招来しつつあるかというと、何と、人間の人間たる所以である情緒中枢が退化してきているという事実が明らかにされてきた。前頭葉全体が縮小してきたのである。その一方で、文明の利器はますます発達する。この結果は、火を見るより明らかであろう。最近話題の映画「アバター」は、コンピューターグラフィックスによる映像と立体画像で衆目を集めているが、キャメロン監督の真の狙いは、全ての生命体のいのちの連鎖であり、全てのいのちを慈しむ心を大切にしようと訴える大変シリアスな物語である。しかし、奇妙なことにその本質はほとんど伝わっていないように思われる。宮崎駿の最近のアニメーション、「丘の上のポニョ」を始めとする一連のアニメーションで彼が訴え続けてきたことも同様、ほとんどの人達が理解出来ていないのではないだろうか。
彼が訴え続けることによって人々の心にその本質が澱のように情緒中枢へ蓄積されていくと思われるが、情緒が破壊されていく速度が速すぎるため、立ち止まって考える時間もなくなるかもしれないことが危惧される。人類が数億年掛けて前頭葉を発達させてきたにもかかわらず、わずか数百年で類人猿のそれ以下に縮小してしまうかもしれないという可能性は、あらゆる生物に適合する成長曲線がS字型であることから推測できる。
例えば、ヒトの身長の伸びは2歳頃までゆっくりであるが、ここから急速に伸び始め、11歳から17歳までが伸び盛りで後は少しずつ伸びながらやがて一定の身長で止まる。このような曲線はS字を描くのでS字曲線と呼ぶのであるが、Sの字の高さを一定にして幅を変えれば縦長のSや横に長い形のSが出来る。ヒトの情緒機能は、他の動物と突出して進化したとされているが、これは自然科学的に厳密に精査されたわけではないから100%信用出来ないとしても、このような特別の機能は形になるまで時間が掛かると考えるべきであろう。すなわち、S字の巾を時間軸と考えれば、ヒトの情緒が形成されるにはゆっくりの時間帯が長く掛かることを意味する。ところが、この情緒機能は環境のストレスによって簡単に破壊されてしまうことがわかっている。
その例の一つが子どもに対する虐待である。虐待を受ける子どもは、最初は悲しくて泣く。これは情緒中枢の知情意の統合領域での「情」が機能する。次に「知」が機能し、なぜ虐待を受けるのかを考える。それでも虐待が続くと、「意」によって「虐待に耐えて頑張ろう。そうすれば、何時か終わるだろう。」と考える。しかし、この虐待が日常的に延々と続くと、知情意のサイクルは完全に破壊され、修復不可能になる。その結果は、暴力的表現に頼るか完全な鬱(うつ)状態に陥り、情緒中枢の機能は停止する。
情緒という機能は、ヒトが持つ素晴らしい機能であるがおそろしく繊細な機能で、破壊されやすいのである。生まれてきた子どもには全て備わっているはずである。この繊細な機能を大切に育てていかねばならない。