有名な記憶法のひとつに「言葉とイメージを脳内で連結する」という技法があります。この方法はランダムな単語であっても早く、確実に覚えることのできる方法として知られているので、習得されている方も少なくないと思います。たとえば私の名前は中川ですが、私の顔に「この人が川の中でおぼれていて、大量の水をガバガバと飲み込んでいる」というような、漫画的で極端な画像としてのイメージをすることで記憶を定着させます。すると、私の名前を、顔を見た瞬間にそのようなイメージから連想して、中川という名前を思い出すことができるというのです。
唐突に感じられたかも知れませんが、このように言葉とイメージというのは密接に関係しています。漫画的な画像でなくても、楽しい思い出などがその人やその単語にあれば、その思い出と一緒に言葉は記憶されています。もし、「福島」という言葉自体に大げさなイメージをつけるとするならば、福々しい大きな神様が、島の上に鎮座されていて「ハッハッハッ!」と大笑いしているところをイメージしたことでしょう。残念なことに、今この「福島」という言葉に、多くの人の頭の中で連結されているイメージは、あの事故が起きたときから第一原発の痛々しく無残な姿ではないでしょうか。福島出身の人はもちろん、福島に一度でも訪れたことのある人の中では、それとは全く違う美しい風景や楽しい思い出かもしれません。しかし、「フクシマ」という地名を初めて聞いた海外の人のなかでは、脳の中の連想はまさにあの恐ろしい原発の姿であり、また不可視の放射能という恐怖と結びついてしまいました。私たちが異国である「チェルノブイリ」という言葉を聞いたときのイメージを思い出してみて下さい。あの、石棺の恐ろしい画像がでてくるのではないでしょうか。これは、全く違う視点で見たとき、つまりフクシマやチェルノブイリの人にとって、どれほど悲しいことか、想像できるでしょうか。
かたや、人を癒すヒーリングは、「相手の中に光を見いだし、イメージの中で笑顔を重ねる」ことだとすれば、原発が事故を起こしたフクシマやチェルノブイリの人にとって、先ほど述べたような事故後たくさんの脳内の連想が、どれだけ障害になり、また悲しみとなっていることでしょう。日本中の多くの人が、福島第一原発の方向に恐れを感じ、またネガティブな連想をもってその名を呼ぶことは、福島の人はもちろん、私にとっても大変苦しいことなのです。
同じようなことをもう一つ振り返ってみましょう。大半の人にとって「○μシーベルト」という単位は事故が起きてから知った単位かと思います。この数字が、たとえば1だと大きいとか小さいとかは、各々が事故後に接した情報源によって判断が異なってきます。ある人にとって1は大変大きく、ある人にとって1はそれほど恐ろしくない数字です。この数字に対する尺度ですら、多くの場合には事故後、つまりほんの4ヶ月ほど前から得た情報であって、それ以前からずっと知っていたものではありません。「福島」という言葉に対する連想と同じく、それはほんの数ヶ月前から私たちの中に定着したのです。
人が本能的に怒りや恐れ、不安を感じる根本にあるものを、心理学的には「メタ認知的信念」と呼びます。このメタ認知的信念は幼少期の痛みや悲しみの経験から形作られることが多いと言われています。3・11大震災と、それに付随した原発事故は私たち日本人にとって大変な痛みでしたから、その痛みとともに、言葉や数字に対する定義付けがなされてしまいました。言葉だけでとらえどころのない不安や苦しみが想起されてしまうのは、この新しくできたメタ認知的信念が原因です。この連鎖反応から逃れるためには、その信念が発生した時まで記憶を遡り、それが何によってそうなったのかをしっかり振り返るのがもっとも効果的であり、怒りの爆発をコントロールする技法と全く同じです。怒りの感情を抑えられなくなるのには必ず過去に原因があり、そこに遡って解きほぐす以外にやり過ごす方法はありません。
読者の皆さん、どうか今から「福島」という言葉に、過去の連想で恐怖のイメージを重ねないでいたただきたいのです。「福島」は文字通り読めば、「福の島」です。私たち日本人の未来のすべては、福島をどうするのかにかかっていると言っても過言ではありません。放射性物質と「福島」に関連はありますが、それは原発のことであって「福島」そのもののことではないのです。ぜひ、そのことをもう一度思い出していただいて、福島の未来にこの国の未来を重ねて、この国を福の島としようではありませんか!