2008年10月に村落開発支援プロジェクトを開始した、タイ国境近くのカンボジア北西部、バッタンバン州にあるオッチョンボック村は、まだ地雷原の残る場所で、本会の提携する地雷撤去団体MAGが活動している村です。4月に調査に入ったときにはごく普通の村落の風景でしたが、12月に訪問した際には、地雷撤去が開始され、地雷原を示す赤いドクロの看板が家々の前や畑に立てられていました。これは何を意味するか、皆さん分かりますか?つまり人々が家を建てて生活し、畑として耕していた土地も地雷原だったのです。
地雷原の多くは、特別な場所ではありません。よく赤いドクロの看板が立っているところが写真や映像で使われますが、むしろそういう看板の立っていない道路の脇や畑、山、森の中などに地雷があるほうが多いのです。
これらの家々に住んでいた人々のなかに、地雷生存者の方々がいました。その一人、リン・イアンさんは、次のように話してくれました。
『私は1985年にクメール・ルージュの兵士をしていたときに、地雷を踏みました。18歳でした。事故の後、クメール・ルージュの医師に手当てをしてもらいましたが、(骨が伸びてくるので)3回も脚を切断しなければなりませんでした。その事故はこの地雷原ではありませんでしたが、住む土地がなく、ここへ移ってきました。ここもまた、危険な地雷原であることはもちろん知っていますが、他に住む場所もなく、仕方なく生活しています。』
彼は話をする間もずっと、畑を耕すために多くの地雷を自分の手で撤去していました。家の下には自分で解体した対戦車地雷がありました。そして家のすぐ横のバナナの木の下を指差して、『まだあそこには地雷が埋まっています。子どもたちがあそこへ行かないよう、家には必ず自分か妻のどちらかがいて、見守っています。』
2009年2月現在、彼の家のすぐ後ろの畑では、地雷撤去団体MAGによる地雷撤去が行われています。MAGは何度もこの村に調査に来ていましたが、活動資金が得られず、撤去が遅れていました。そしてようやく撤去活動が始まりました。撤去の話になった時、インタビューをしていたイアンさんが急に立ち上がりました。『MAGの撤去活動は、私たちにとって本当に素晴らしいことです。ようやく安全に安心して暮らせるようになります。』と力を込めて話してくれました。そして続けて、地雷原で生活することの恐怖を語ってくれたのです。『この村に移動してきた当時は、まだジャングルに覆われていました。畑を耕すためにこのジャングルの木を一本一本切るときには、いつかもう一つの脚も地雷で失うのではないかと、常にものすごい恐怖との戦いでした。』彼の声は、当時の恐怖を思い起こしているように震えていました。
MAGの地雷撤去によって2009年1月、彼の家のわずか5m後ろから、通称『黒い未亡人』(黒と茶色の色をしていることから)と恐れられる旧ソ連製のPMNという対人地雷が撤去されました。またすでに収穫を終えたトウモロコシ畑からは、たくさんの地雷が今もなお撤去されています。
大変な環境下に置かれた貧しい人々は厳しい生活をしています。こうした人々が何もしていないわけではなく、むしろ、1日1日を生きぬくために、危険を冒してでも大変な努力をしているのです。カンボジアという国に駐在するようになって、そういった人々を何人も見てきました。実は、本当に勇気をもって行動しなければならないのは、やろうと思えばなんでも挑戦できる環境にいる、私も含めた先進国といわれる国に住む人々のほうかもしれません。片足のマラソンランナーで、地雷撤去活動中に地雷によって片足と片手を失った長野オリンピックの最終聖火ランナー、クリス・ムーンもまたこのようなことを言っています。
Change is possible!
Anything is possible!
We should always strive to make
the best of what we have!
- Chris Moon-
「変えられないものなんてない。なんだって可能だ。僕たちはいつだって、自分のやれる限りのことをめいっぱいすればいい」-クリス・ムーン。
何か新しいことを始める勇気、ちょっとした日常生活での他人への気遣いをする勇気、…地雷原に住む人たちに必要な勇気と比べることはできませんが、もし勇気がなくて躊躇するときがあれば、ぜひ彼らの存在を思い出してみてください。
江角泰(えずみ たい)
江角泰(えずみ たい)氏 NPO法人テラ・ルネッサンスのカンボジア事業担当者。 大学時代に、NGO地雷ゼロ宮崎のメンバーとして参加した「テラ・ルネッサンスのカンボジア・スタディツアー」が、テラルネッサンスとの出会い。 現在は、カンボジアにおける地雷問題に取り組む他、弊社が進めるラオス中学校建設プロジェクトも担当中。 |