映画は友達!
発達障害を持つ子どもたちに共通する特徴として、一つの物事にとことんこだわるという可愛らしさがあります。その世界観は胸がキュンとするほどいじらしく、とっても素敵なのです。彼らはその独自性ならではの真っ直ぐな軸を持ち、決してブレることはありません。そしてとても優しく純粋であるがゆえに、時には周囲からのデリカシーのない言葉という刃で、深く傷ついてしまうこともあります。とても素直だからこそ傷つき方も深く。
それを思うとき、何とかこの子たちの本質の素晴らしさを多くの方に理解してもらいたい!守ってあげたい!と私は強く思うのです。
「アキトにとって映画の魅力って何?」
「映画は友達‼」
きっぱりと答えたその言葉に、私は胸が詰まりました。共通の世界観を持つ友達がなかなかできなかった彼にとって、映画は深い安堵を感じられるものだったのでしょう。彼は愛する対象を見つけたのです。〝繋がり〟を見出したのです。そして、映画が自分のパーソナリティになったと言いました。
「ゲームをやっているときの僕は創造的じゃなかった。ロボットみたいだった。自分に自信がなくて、一生涯ゲーム中毒になっていたかもしれない。映画に出合わなかったら僕はずっと自信を持てなかったけど、震災で自分が変わったんだ。今は映画を愛する自分に対して自信を持てるし、誇りに思っているよ」。
兄弟間の葛藤
「自分がロボットみたいだと感じていたころの自分、自分を見つける前の自分は、どんなアキトだったの?」
「僕はいつもお兄ちゃんの影響を受けていた。お兄ちゃんはバイオニクル(レゴのキャラクター)のストップモーション映画を作って、その動画をYouTubeで世界に配信していた。お兄ちゃんはスゴイんだよ! お兄ちゃんと一緒に映画もたくさん観にいったけど、ある時、僕が観にいきたいと誘った映画をお兄ちゃんが断ったんだ。だから僕は一人でそれを観にいった。でもそのときに気づいたんだ。〝僕の好みはお兄ちゃんの好みではない。お兄ちゃんの好みは僕の好みとは限らない。僕には僕のこだわりと好みがある。人の好みに合わせる必要はないんだ!〟って」。
次男は〝Who am I ? 〟という自己認識欲求を、本能的に強く持っているタイプでした。それでも周囲からの 〝ちょっと変わったおかしな子〟という視線を常に気にしながら暗澹たる思いを抱えつつも、一生懸命に適応しようと周りに合わせ続けてきたのです。受け入れてもらいたい、認めてもらいたい、理解してもらいたい、言語発達遅滞が見られる彼は、言葉にならない思いを何とか周囲に合わせることで、自己を確信したかったのでしょう。しかし、思春期を迎え、徐々に2つ年上のお兄ちゃんとの間にあつれきが生じ始めました。それまで長男の言うことに一切 NO! と言えなかった次男の、当たり前になっていた兄弟間の主従関係に対するフラストレーションが露わになったのです。言葉によるコミュニケーションに難儀さを抱える次男にとっては、不利な立場で従うしかなかったのです。
とはいえ長男も決して最初から弟を従わせようという意図があったわけではありません。彼自身、コミュニケーションが取りづらい弟との関係性に対して、ずっと悶々としたものを抱えていたに違いありません。幼いころは言葉などなくても、ただ笑って無邪気にじゃれあって遊べた可愛い存在だったのに。兄にとっても、弟の抵抗はあまりにも突然で、戸惑ったことでしょう。はっきりと弟に指示を与えなければ一緒に遊べなかった、絡みあえなかった。長男の明確な自己主張は、彼なりに交わる方法だったのかもしれません。