子どもはみんな天才。私たちは皆、固有の個性を天与されて生まれてきます。自分らしいオリジナルの花を咲かせ、生きることに喜びを感じながら、世界に彩りと豊かさをもたらすために。
若かりしころから、内なる声が私に語り続けてくれた言葉。
「オリジナルでありなさい」
世間からどう見られようとも、私が私であるということ。それは子育てをするうえでも、私を支えてくれました。他者から見た母親としての自分、他者から見たわが子、他者から見た親子関係、他者から見た家族の形。それら自分ではないものの世界観に主体を移すことなく、他者の価値観に従うことなく、大いなる自己の声に従って生きるということが、どれほど尊いことか。
オリジナルであることの大切さを身にしみて感じていたのは、過去、他者の期待やルールに従って、精神的に追い詰められた経験があるからこそです。
発達障害をもつ次男アキトが以前言っていました。
「僕が達成したい人生のゴールは、自分自身でいて幸せなこと。アキトがアキトでなくなることが怖いんだ。自分じゃない自分になるのは、そこに怖れがあるから。変わらない自分を目指したい。この人物は楽しいから。自分を否定するような人は避けるよ。僕がしたいことをする。自分が望むこととタイミングに従って行動すればいいんだ」。
彼はまだ十代という若さでも、ごまかしのきかない純粋で本能的なアンテナをもつがゆえに、さまざまな経験のなかで、既に宇宙のリズムと自己の内なるリズムを同調させることの大切さを感じ取っていたのでしょう。
天才というレッテル
自分らしく生きるために、正々堂々と発達障害であることを公表すると、逆に〝天才〟というレッテルを貼りたがる大人もいます。際立つ才能を見つけて、天才とはやし立てるのです。その期待感こそが天才をつぶすことを知らずに。
私たち大人もかつては子どもでした。一人一人の潜在的にもつ能力と個性は、天から授けられた宝です。それは人と比較するものではありません。たとえ世間からの称賛を浴びなくても。一人一人が胸の深奥で充足を感じ、喜びを感じながら生きることができたなら、それでいいはずです。
なぜ人は背伸びをして、他者と自分を比べ、より大きなもの、立派なものになろうとするのでしょうか。いったい人間の競争心というのは、どこから始まったのでしょうか。
幼少期に無条件に愛された記憶、認められた記憶が希薄であるほど、欠乏感をもったまま大人になります。その満たされない心の空洞は、自分が親になったとき、〝期待〟という愛情に形を変えて、その空洞を埋めるべく子どもにリベンジを図るものです。
しかしそれに気づいた人から、親子間の空洞の穴埋め連鎖を断ち切り、自己の本性を思い出し、原点に返り、天与された個性と才能を生かして生きること。人の評価など一切気にせずに、魂の根幹から湧き出る喜びから生きること。源と自己とをしっかりと結び、神聖なる自分自身を生きること。そういった大人の姿勢こそが、これからの子育てに求められていることだと思うのです。
昨年からずっと、内なる声が私に訴え続けています。「自然へ帰りなさい!」「楽しみなさい。あなたに必要なものは、すべて与えます」。
その言葉に安堵を感じる。大いなる地球の母胎に還る感覚。けれどこれに従うということは、現実的には大きな変化とリスクを伴います。しかし、すべての導きを信頼し、委ね明け渡そう。今既に与えられていることに日々感謝しながら、満ちた自己の本性にとどまり、花が咲くのを待つことにします。