その後、文化庁が「あいちトリエンナーレ」に約6600万円を支給することになりましたが、一連の騒動は現在、表現の自由が公権力により脅かされる可能性があることを浮き彫りにしました。
この事件をきっかけに、京都において、表現の自由について議論したり、提言をおこなったりするグループ・表現の「不自由」を憂える京都アピールの会が結成され、私も一員として活動してきました。
そして、先日、同グループの一員である丹下紘希さんの映像作品を上映するとともに、参加者同士で対話するイベントを催しました。
上映会と対話の会
イベントでは、丹下さんの複数の作品が上映されました。いずれも、他者との対話の困難性や、それを乗り越える可能性が描かれた素晴らしい作品でしたが、なかでも、『わたしたちという傍観記録』、『〝しぜんの中の小さな会議〟市民によるてつがく対話』などの作品が印象に残りました。
『わたしたちという傍観記録』は、インターネット上の政治的ニュースに対して匿名でなされる過激な書き込みを現実化し、「語る者」と「黙る者」との間に横たわる境界を暴き出すような作品でした。そこで登場する「黙る者」に対する評価は一様ではないと思います。無関心と批判することもできるでしょうが、他方で私は、黙る自由も尊重されるべきと感じました。表現を制約されることのみならず、表現を強制されることもまた、表現の「不自由」に違いないのですから。
『〝しぜんの中の小さな会議〟市民によるてつがく対話』では、ある地域で生活する一般の方が数名集い、「成長とはなにか」などのテーマで哲学的な対話をする場が映像化されました。借り物の言葉ではなく、自分の内側から生まれる言葉で考え、語ろうとする出演者の姿に心を打たれました。
そして上映後の対話の会では、作品に誘発された参加者から、さまざまな感想が述べられました。たとえば、作品内で対話のテーマとされた「成長とはなにか」という問いに、参加者からもそれぞれの成長観が語られ、私自身も多くの示唆をいただきました。
子どもへと成長すること
ところで、丹下さんの作品には、しばしば子どもたちが登場します。子どもたちは、あるときは、おとなが素通りしてしまうような落ち葉の美しさに心を奪われ、またあるときは、遠慮がちに対話をするおとなたちにお構いなしに、弾けるような笑顔と歓声で、友人たちと喜びを共有し合います。
私はこうした場面を観て、逆説的ですが、私たちおとなにとっての成長とは、いつの間にか失ってしまった子ども性を取り戻すことなのかもしれないと感じました。私たちが、日常の何気ない光景に感動する心や、他者と交歓する開かれた心を取り戻すことができれば、それは人間としての成長を意味し、同時に、そのような大人が増えることは、社会にとっての成長をも意味するのではないかと感じたのです。
子どもへと成長すること。しばらくの間、そんなことを目標にしてみようかな、と思いました。
ともあれ、このイベントは、表現活動が対話の端緒となり、対話が表現活動の源泉となるということを実感できる充実したイベントでした。今後も、表現の自由のための活動を継続したいと思います。