人生において、私たちはしばしば、「正しい選択」と「心が動く選択」の狭間で揺れ動くことがあります。これは「すべきこと」対「したいこと」のせめぎ合い、とも呼べるものです。
理性が教える正しい答え、そして、感性が伝えるあなたの正直な願い。仲裁役のあなたは、二つの板挟みになりながら思うでしょう。「どちらの言い分もわかる」と。この状態で、どちらか一方だけを選ぼうとすれば、迷い悩み、葛藤するのは当然ともいえます。
それでも前に進むために、私たちは最終的に一つの結論を導きだす必要があります。では、どのようにすれば、葛藤のなかでも、自分が納得のいく答えを出せるのでしょうか。今回は、私自身の体験をご紹介します。二つとない、自分にとっての真実(答え)を見つけるヒントになれば幸いです。
一網打尽の名案
父の三回忌を翌日に控え、追悼の形を決めかねていたときのことです。目をつぶり大きく息を吐くと、
「常識的な三回忌はしない」
「亡き父とデートをする」
それは、もう一人の自分がひらめく声でした。「それだ!」と心が躍りました。方向性が定まると、具体的なプランも面白いくらい迷いなく、次々バシッと決まっていきます。
「父の写真をカバンに忍ばせ、新庁舎でおこなわれる勉強会へ連れ出そう! 父は市政に命をかけた人だから、きっと喜ぶだろうな。そのあとは、二人でアフタヌーンティー。『ハイカラだね』という嬉しそうな声が聞こえるようだわ。夜は、父が好きだった玉子焼きと生姜焼きを作ろう」
こうして一気に決まった亡き父と私のデートプランは、晴れて計画通りに実現。慣習にとらわれず、自分の本音につながって決めた私流の三回忌は、文句なしに大満足で大成功でした。
しかし、この答えに至るまでに迷いがなかったわけではありません。「お供え料理を準備して、静かに過ごそう」と頭の声はするけれど、行きたい勉強会もあり、心はいささか重く、決断に至れずにいました。
法要はおこなわないと決めていたとはいえ、三回忌です。朝から父に意識を向けたい。とはいえ、三回忌を言い訳にして、申し込みまで終えた勉強会を取りやめるのも、なにかが違う。私は、二択に縛られ、行き詰まっていました。
AかBでは満足いかない理由
このように、「どちらか一方を選ぼうと試みるが、どちらもしっくりこない」という体験、よくありませんか? 一つに絞り込めない、決断できない心理です。これには、二つの理由があります。一つ目は、本当はどちらも大切にしたいのに、どちらかを切り捨てようとするから。二つ目は、方法論に囚われ過ぎて、本質的な視点を失っているから。
本質的な視点とは、「そもそも、なんのためにやるのか」「本当はなにを大切にしたいのか」「どうなったら嬉しいのか」などで、よく抽象度や視座を上げる、とも表現されますね。この視点が抜けると、発想が乏しくなり、袋小路に迷い込みかねません。
では、その状態に陥った場合、どうしたらよいのでしょう。ぜひ『声の力』に頼ってみませんか。
まずは、ため息を数回。それから、「はあ~~~」と思いっきり身体から響かせるのです。15秒もすれば、グルグルしていた頭はシーンと静まり、ザワザワした心は落ち着きを取り戻していることに気づくでしょう。私はこれを、ボイス瞑想と呼んでいます。この状態なら、本質的な視点に立ち返ることができます。自分の内なる声をキャッチする準備も万端。さぁ、問いかけてみましょう。きっと、あなたが大切にしたいことすべてを叶えられる答えが見つかりますよ。それは、正当化も罪悪感も要らない。二つとない、貴方にとっての真実なのです。