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中川信男の多事争論

「多事争論」とは……福沢諭吉の言葉。 多数に飲み込まれない少数意見の存在が、 自由に生きるための唯一の道であることを示す

プレマ株式会社 代表取締役
ジェラティエーレ

中川信男 (なかがわ のぶお)

京都市生まれ。
文書で確認できる限り400年以上続く家系の長男。
20代は山や武道、インドや東南アジア諸国で修行。
3人の介護、5人の子育てを通じ東西の自然療法に親しむも、最新科学と医学の進化も否定せず、太古の叡智と近現代の知見、技術革新のバランスの取れた融合を目指す。1999年プレマ事務所設立、現プレマ株式会社代表取締役。保守的に見えて新しいもの好きな「ずぶずぶの京都人」。

【Vol.99】今の自分を生きる

投稿日:

今月はきわめて個人的な話ばかりでお目汚しとなりますこと、まずはお詫びいたします。先月十一月二日、私の母(勝子)が八一歳で永眠しました。最後の約二週間は私が毎日付き添うことができましたし、病院とも無用な延命治療は行わないことでお互い認識を共有していましたので、混乱することもなく最後の時を迎えることができました。この間、ドクターはじめ医療チームの皆さま、そして弊社のスタッフにも大変お世話になりました。ほんとうにありがとうございました。

いよいよ最後となるとき、母は私はもちろんですが、孫たちの小さな手に包まれながら、息を引き取ることになりました。彼女には私を含む2人の子、そして6人の孫がおり、遠くにいた2人は間に合いませんでしたが、4人の孫に囲まれて光の道を帰りました。安置したのち、時間が経つほどに母の顔はどんどん笑ってゆくのです。私も少なからず人の亡骸を目にすることがありましたが、これほど安らかに、いや、笑っている顔は見たことがないほどの喜びに満ちた相でした。のちにこの話を菩提寺の奥様にお話ししたとき、「勝子さんは自分の好きなように生きてきはったのに、最後がこんなに幸せなんて、たぶん前世で相当な功徳を積んではったんでしょうね」とおっしゃいました。彼女は母はもちろん、私が幼いときのこともいろいろなことを知っている生き証人でしたので、母の奔放な生き方もよくよく知っている人です。私が産まれたときにはすでに父はおらず、私は父というものの存在を感じたことなく育ちました。その後、母は再婚し、弟が生まれます。私は女性だけになっていた中川家の跡取りとして母の姉のところに養子として縁組みすることになり、家長のようだった祖母と養母に溺愛のもと育てられました。跡取りといっても、守るような財産も地位も何もない貧家でしたので、分かっている限りで400年以上続く家系を継ぐだけが役割だったのでしょう。とにかく、幼少期の私は愛されて育てられましたが、祖母は中学生の頃、そして養母もまた長い闘病を経て私が二二歳の時になくなったのです。このとき、私の母は介護するわけでもなく、お金をいれるわけでもありませんでしたので、それらは養子となった私の責任でした。若い頃の時間の多くを介護に捧げていた訳ですから、そこで感じた母に対する半ば歪んだ心境は、つい最近まで変わることがありませんでした。

こだわりをもたないということ

こだわりとは、漢字で書くと「拘り」と書きます。コウ、と発音し、以前は悪い意味合いで使われることが多かった言葉です。「拘禁」「拘束」「拘置」などに使われるとおり、とらえたり、つないだり、とらわれる意味を持ちます。最近では「こだわりの素材」「こだわりの製法」などの意味で、信念があるという良い意味で使われることも多く、私たちのページにもよく登場します。私以外の人が文章を書くと、どうしても最近流行のこの言葉を使って品の優れた点を表現しようとしがちですが、決してそれが間違っているわけではありません。特に環境に、そして身体によい何かを作るときには、価値観がブレブレではいけません。経済的有利さ、お金をより多く得ることだけを求めれば、それ以外の価値にこだわる意味はなくなり、それは現代の病理そのものですから、「こだわりをもった○○」は、それが真実である限り、価値あるものといえるでしょう。ですから、「中川さんはこだわっている方なので、安心できます」と言われると、当然悪い気はしません。しかし、中川家の3人の女性、つまり母、養母、祖母はいずれもこだわりの極めて少ない人でした。

人の価値を高める

私はその3人から、いつも「偉い」と言われて育てられました。文盲の祖母は「字が読めるから偉い」、養母からは「しっかりしていて偉い」、母からは「怒ると怖いけど偉い」と、偉い偉いづくしです。とにかく何でも良かったのでしょう、これは溺愛ともいいます。私の上3人の子どもたちが通う学校の学園長も、「溺愛されて育った子は、厳しく躾けられた子と比べて大人になってからの伸びしろが違う、それは自己重要感をちゃんと感じているからだ」とよくおっしゃいます。親にこだわりがあれば、あれをしなさい、これをしたら偉いという条件がつきますが、私を育ててくれた3人にはこれがほぼ皆無でした。私がなんであっても、それで良かったのです。母もそういう人で、あれこれ希望はいいますが、それに固執することはありませんでした。自分の病気も「先生にお任せします、聞いたところで私には分かりませんから」とさっぱりしたものでした。つい、仕事柄「おいおい」と言いたくなりますが、母はそういう人なんだと言葉を飲み込みました。前提がない、ということは、素晴らしいことだと今はよくわかります。母は幸せになること、子どもをしっかり育てることにも固執しなかったので、最後に幸せを手にしました。生まれたときから仏のような人たちに育てられた私、そしてそんなラテンな感じは、私の芯にいつも忍んでいます。「明日には、明日の風が吹く。たとえ今日がなんであれ、明日になれば何とかなるさ」。母は晩年、ズンドコ節を口ずさみ、全身の痛みと強い鎮痛剤の波のなかでも、やはりズンドコのリズムに体が本能で動きました。いつも前提を必要とせず、滅多に無理をしようとしなかった、常に今の自分を生きようとした母の子であったことを、心から誇りに思い、感謝しています。

- 中川信男の多事争論 - 2015年12月発刊 Vol.99

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