最終稿を書くに当たって田原総一郎の「デジタル教育は日本を滅ぼす」、外山滋比古と田中真紀子の対談による「あたまの散歩」、副題が「デジタル教科書はいらない」を読みました。
田原さんの本で、2015年を目標に、教科書のデジタル化が計画されていることを知り愕然とした次第です。世の中のほとんどの人々は、私同様そのような計画が進められているとは知らないでしょう。テレビのデジタル化の次に、教育のデジタル化が着々と進められているのです。この計画は戦後の国語政策で漢字の字数とその音訓の用法を制限するという大きな誤りを犯したよりも悪い愚行です。
我国の言語は、世界にも稀な表意、表音を自由自在に駆使する高度に完成された言語で、言語の表記そのものがその発声を伴って人の情緒の琴線をふるわせ高めてくれます。しかし、英語のような表音文字はデジタルそのもので、論理的に組み立てなければ人には伝わりにくいものです。いずれの言語方式にも、長所、短所はあるのですが、日本語は表意・表音を駆使できるのですから互いの欠点を補うことが出来ます。これは素晴らしいことですが習得するのに大変なエネルギーが必要です。しかし、この努力こそが脳を豊かに育て、情緒を育んでくれるのだと考えています。
ヒトのヒトたる所以は、他の動物の脳に比べて情緒中枢が存在する前頭葉の部分が発達していることにあると言われています。この前頭葉が現代では萎縮の方向にあるという報告があります。ヒトの脳は、アナログ、デジタル両機能に加えてこれらを調和させ、総合的に判断する機能を司る重要な司令塔としての役割を持つ情緒中枢があります。生物経済学事始でも述べましたが、ヒト属という動物の身体能力は、生来自然に対する適応性が極めて低かったために、これがストレスになって道具や火を使うことを学び、今日の文明社会にたどり着いたのです。しかし、皮肉な事にこの文明は際限もなく身体的快適性を追求する手段と化し、今日に至っています。その結果、筋肉の鍛錬という苦痛を伴う行為からも逃避するようになって運動機能を司る小脳も退化し、大脳だけが機能する新人類が誕生し始めました。デジタル化とバーチャルリアリティーの相乗効果で、快適性の追求はますます先鋭化して行くでしょう。美しい自然やその精妙な調和の世界は3Dテレビでよりリアルに見せてくれますが、本物ではありません。以前、この通信を担当しているプレマの山下女史が話してくれたことです。忙しい時間の合間を縫って自分の子どもたちを喜ばそうと大阪のユニバーサルスタジオに連れて行ったそうですが、子どもたちに私の研究所の中にある谷川でサワガニを捕ったことの方が楽しかったと言われてショックを受けたという話を思い出します。
ディズニーランドはバーチャルリアリティーを具体的な形にした最初の施設ですが、情緒という高次の機能はディズニーランドからは生まれてきません。親と子、人と人、そして男と女、自然との対話とふれあい、他のいのちとの出会いに加え、私たちの祖先が作り上げてきた文化としての界隈から醸し出されると私は考えています。
私たちの脳は、快適、快楽を満足させてくれるストレスは受け入れますが、それ以外は拒否する機能が特化しつつあります。我国では、40代の夫婦でセックスレスが60%に達し、離婚が増えているだけでなく、妻の自立、夫の存在感の希薄化が顕在化しつつあります。今言われる草食男と肉食女は社会のデジタル化と期を一にしています。動物の母性本能はわが子を守るために備わったもので、己を犠牲にしても子を守るはずですが、現代社会では母性の欠落が目に付きます。母性にとって安逸と快適性は子育てのために大切な要素ですが、これはあくまで種の保存・保続という本能に基づいたものです。しかし、快適性が優先すると女性はますます自己組織化によって美しくなることにかまけ母性本能は退化します。女は放っておいても女に成れますが、男は女親によって厳しく育てられなければ男にはなれないのです。優秀な男(雄)を作るのは男親ではなく女親だということを「孟母三遷」の諺から学んでください。デジタル社会で育てられた子どもたちは、生まれながらにして情緒欠損症候群となり、子どもにとって大切な学校教育の現場は不毛の原野と化すでしょう。社会全体に人間性に対する大きな歪が生じてきたにもかかわらず、対処療法で更なるデジタル化を進めようとしているのです。最後になりますが、とにかく大切な子どもたちを情緒欠損症候群にしないために、親が特に母親が頑張るしかないでしょう。私がこれまで述べてきたことが少しでも参考になればと願っています。