学生時代にエリザベス・キューブラー=ロスが提唱する「死の受容のプロセス」を知って興味を持ち、関連図書を読んだり、ホスピスを見学させていただいたりしました。「死の受容のプロセス」とは、病床などで死を宣告されたときにたどる心理状態を、5段階で説明したものです。
1 否認・隔離…自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階
2 怒り…なぜ自分が死ななければならないのかと怒りを周囲に向ける段階
3 取引…なんとか死なずに済むように、取引をしようと試みる段階。なにかにすがろうという心理状態
4 抑うつ…なにもできなくなる段階
5 受容…最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階
当時の興味は、まず自分が死ぬときに本当に死を受容できるのか? ということでした。認めたくはなかったけど、死への恐怖がとても強かったのだと思います。もし受容ができて恐怖なく死ぬことができるなら、ぜひその心理状態になりたいと思いました。タイミングよく天外伺朗さんの『理想的な死に方』という本も出版され、この世界には自分の死期を予感して、死ぬ準備をして瞑想しながら亡くなるという、ヨガの行者、禅の僧侶がいることが記されていました。ぜひ自分も、そういう死に方をしたいし、多分できるだろうと勝手に思っていました。
そのためには実存的変容が必要で、「なぜ生きるのか? どのように生きるのか?」という根本的な考え方をパラダイムシフト(それまでの常識を覆すような大きな価値観の変化)させねばならないと理解しました。もともと仏教や悟りにも興味があったので、その境地に達したい!と瞑想のまねごとをしたり、関連本を読んだりしました。
死ぬのが怖いのは当たり前
医者1年目で矢山利彦先生の東洋医学外来の見学に行ったとき、先生が天外伺朗さんと仲良しと知って驚きました。矢山先生も病気の治癒には実存的変容が必要と考えていらっしゃいました。その後も、スピリチュアルに興味を持ったり、前世を探ってみたり、内観したり、瞑想したりして、心は徐々に軽くなっていきましたが、悟ったという感覚はやって来ませんでした。
真理(心理)の探求を続けていましたが、ある時「死は怖いのが当たり前。死に直面したら、泣き叫んで、無様な姿をさらしてもいい。いや絶対そうなる!」と思うようになりました。そうなると、絶対悟りたい、死を受容しなければいけないという縛りから開放されていることに気づきました。ちょ~らくちん♪になっていたのです。実存的変容とは、こだわり(~であるべき)からの開放であるはずなのに、死の受容や悟りにこだわることで、本当の実存的変容から遠ざかっていたのです。悟りや死の受容は、求めて得られる果実ではない。偶然のタイミングと自分の条件があったときに、枝から落ちてくる果実なのかもしれません。
理想、目標、夢をすてる
理想、目標、夢に向かって頑張るのが素晴らしいと、現代人は思い込まされています。成功した人になるためには、成功者を目標にして、それに近づくことが成功なのだと勘違いしてしまっているようです。
本当の意味で成功している人は、ただ自分の好きなことを追求しているなかで、たまたま運に恵まれたときに「この人は成功者だ」と周囲から認められた人なのだと思います。そういう人を模倣して、成功することを目標にしてしまいがちですが、おそらく本当の成功はやって来ません。それで大金を得ることができるかもしれませんが、目の前の好きなことに没頭する人の幸せには敵わないと思います。
みなさんも「理想の未来」を少し緩めてみませんか? 新しい価値観に気づくことができるかもしれませんよ。