この文章を書いている時点で、2年ぶりの夏の甲子園が終わりました。母校の智辯学園が、兄弟校の智辯和歌山に負けてしまいましたが、準優勝という素晴らしい結果に、選手たちへ拍手を贈りたいと思います。
昨年は甲子園自体が開催されないという異常事態でした。悔しい思いをした全国の野球部の選手たち。地方予選で敗退したチーム。レギュラーに選ばれなかった選手たち。選手を見守る保護者の方々。さまざまな思いがつまった、今年の甲子園だったと思います。関わったすべての人に、エールを贈ります。
「無限の自由」に気づく
閑話休題。智辯学園は仏教系の学校で、週1回宗教の授業がありました。仏教の基本的な教えや、般若心経の意味を解説していただきました。成績に関係ないため、勉強ができる優秀な友人たちは、内職(勉強)タイムだったようですが、当時から落ちこぼれだったうえに、仏教の教えに興味があった自分は、もっと詳しく教えてほしいと思いながら聞いていました。
また校舎内の掲示板に「一切衆生悉有仏性」と、墨汁書きで大きな張り紙がありました。「いっさいしゅじょう ことごとくぶっしょうあり」と読むと、授業で聞いた覚えがあります。しかしネットで検索すると「いっさいしゅじょう しつうぶっしょう」が一般的な様子。「生きとし生けるものは、すべて仏陀になる可能性(仏性)を持っている」との意味です。その当時は、自分も悟れるかな? 極悪人にも仏性はあるのか? くらいにしか考えていなかったように思います。
その後、様々な本を読んでいくなかで、仏性というのはアーユルベーダのアートマン(真我)や、カール・グスタフ・ユングが提唱した集合的無意識の聖なる側面、神智学でいうハイヤーセルフと同じものを表現していると知りました。そういう概念があると理解できましたが、それが自分にどんな意味があるのかわかりませんでした。その後、瞑想中に自分の魂の光を感じたとき(「らくなちゅらる通信」Vol.59「思考に気づく」参照)、このことだったのか! と実感できました。いま思うと、表面的なイメージだった気もしますが、めったに神秘体験をしない自分にとっては貴重な経験でした。
この仏性を自分の解釈で、わかりやすく説明してみます。私たち人類は、思考することで本能から解き放たれ、一切制限のない「無限の自由」を手に入れました。この自由が、仏性のひとつの側面ではないかと感じています。すべての人にこの自由はありますが、生まれた国、文化、宗教、周囲の人の常識、経済状況、親のしつけや学校の教育などによって、自分の自由を制限されています。さらに、そういった情報を学ぶことで「こうあるべき」「こうしてはいけない」と、自分で自分の手足を縛って、自由をさらに制限しています。仏性に気づくというのは、「無限の自由」とそれを束縛する制限に気づくことではないかと思います。
すべての制限を外しましょうと言っているのではありません。本来自分は無限に自由である、自分にとって不都合な制限は手放してもいい、ということを知ってほしいと思います。たとえば、学校には行かなくてもいい、勉強しなくてもいい、仕事を休んでもいい、家事をしなくてもいい、人に嫌われてもいい、人を嫌ってもいい、離婚してもいい、借金をしてもいい、負けてもいい、がんばらなくてもいい、いい子をやめてもいい、ちゃんとできなくてもいい、好きなことを思いっきりやってもいい。本当の幸せのためならなにをしても、なにもしなくてもOKです。
こんなアナーキーなことが、あんなに厳しい学校の掲示板に貼ってあったなんて! 厳しい先生や校則に負けず、やれるもんならやってみろという、ブッダからの挑戦状?だったのかもしれません。