少し前のことです。ある方から、「ガンガーさん(私のニックネーム)は、とても幸せそうに見えますね」といわれました。思わぬ言葉に、こそばがゆい感じがしましたが、なんど反芻してみても、とてもよい気持ちになりました。不景気でインフルエンザまで蔓延している今、そのように見られることはダメだ、まじめに生きているのなら、もっと深刻そうな顔をしていなければならないといわれそうですが、こんなときだからこそ、そういわれることがとても嬉しいのです。
世の中の大多数の人、とくに日本人には、成功したり幸せになるためには、苦しみと辛抱を乗り越えなければならないという信念があるように見受けられます。しかも、誰かを幸せにするためには、自分が幸せであってはならないという強迫観念があるように感じられてなりません。ストイックで美しいといえば確かにそうですが、辛そうな雰囲気を醸し出しながら、幸せをかみしめたり、周りを幸福にしている人を実際には見たことがありません。
このようなことを書きますと、こういう反論が聞こえてきそうです。「あの成功している人は、すでに成功しているのだから、そのように幸せに見えるのだ。それまでには数多くの困難と苦労をバネにして、努力をもって乗り越えてきたからこそ、幸せになったに違いない」と。
私の観察によれば、多くの人はより幸せになりたいと願いながら、幸せになれない原因を同時に持ち備えています。それは、「今、自分には何かが足りていない」という感情です。何かが不足しているから、その不足を補うために一生懸命努力します。お金が足りないと思っているのでお金を稼ぐために仕事をがんばり、運が足りないと感じるので、ツキがよくなるという知識を求め、知識が足りないと思うので、勉強します。誤解のないように申し上げておきますが、仕事や勉強に努力するのがいけないのではありません。問題は「・・・がまだ足りていないので」幸せになれていない、という感情なのです。
「不足している」という気持ちの根底には、今は満たされていないという現状認識があります。その足りない何かが埋まれば、自分は幸せな気持ちになれると信じてみますが、それはいくら追いかけても埋まることはありません。どれだけ努力と辛抱を積み重ねてみても、足りないという感情は別の何かを不足させていくのです。焦点を自分に向けて緻密に観察すれば、何かが不足しているように感じるのは自然なことです。
私もそのような気持ちの持ち主でしたから、何かが足りていないという気持ちはとても理解出来ます。しかし、すでに成功していて幸せなひとは、まったく違う前提でものごとを眺めていることを見つけました。彼らは「あらゆるできごと、今の状況はすべて私のために起きている」という思いこみに浸っているということでした。お金が不足しているのは、私を奮い立たせるためであり、ツキがないのは思い上がらないように、知識が足りないのはより多くを学ぶ機会ととらえます。これはプラス思考という軽薄なものではなく、根本的な感情は「すでに自分は幸せなのだから、周りに対してなにか貢献をするしかない」という気持ちです。自分の外側にフォーカスした瞬間、自分が足りていない事実をうんぬんするよりも、今この瞬間を何のために使うのか、何を提供するかに変化します。
つまり、幸せか幸せでないかは、この瞬間の認識だけで決まっているということになります。こんなに単純なことになっていると真に気づいたのは、ごく最近のことでした。
自分が完全であることを手放したとき、幸せは自動的にやってくるようなのです。あなたは今、幸せでしょうか。
『あなたが完璧であるかどうかは、何も問うていない。あなたにそもそも備わっていていることを使って、誰に、何を与えることができるのかだけだ。』という声が聞こえてきそうです。