「悔いる」こと
「悔いる」とは実にネガティブな感情です。でも私はこの気持ちを隠すことができません。無念であり、悔いばかりです。「何に?」もちろん、福島で起こしてしまった出来事です。核は人知を超えて暴走するという事実を、この私が生まれ育った国で目の当たりにすることになろうとは、予想の範囲であったとはいえ、それが目の前の出来事となってしまったことに対する日本人として、大人としての悔いです。私は京都に生まれ、京都で育ちました。千年以上もの歴史があるこの街には、外からのイメージとは全く違う反骨の精神が宿っています。反骨とは「時の不当な権威や権力、時代の風潮に反抗する気概」という意味です。私はまさに反骨の固まりのような青年時代を経て、今このような仕事をしています。お客さまがはじめて弊社でお買い物をされた時にご挨拶の手紙を入れています。その中で私が何をきっかけに、どのように変化したかについて触れていますが、しっかりとしたシャープさを保っておくべきことがあった、とういことに悔いています。福島での出来事は、それほどに私に大きな問いを投げつけ、そして悲しみそのものとなっています。
内外に起きる分断
事故後、何度も福島に足を運び、我が子も連れて行きました。それは一部では喜ばれることではありましたが、一部では反感を買う行動です。そのことを百も承知で福島で起きた出来事に向かい合うつもりでいました。当然、全く違う2つの反応が届きます。「信頼していたのに失望し、見損なった」と言われた時、その声は全く間違っていないと思いました。「このようなときに来ていただいて」と喜んでいただいた時にも、ほんとうにこんなことで何の足しになるのだと自問しました。何をどのようにしても、内にも外にも分断が起きてしまう、これが原発事故の本質です。ある地域が、全く目にも見えず正確なリスクの線引きすらできない物質に覆われ、そこには誰も明確な答えを出すことができないのです。たとえ母子避難をしたとしても、家族は距離に分断されます。一家で避難しても無事に新生活が行える保証はなく、残ったとしてもその場を離れられるものなら離れたいという悩みがつきまといます。生産者と消費者はわかり合うことが難しくなり、真面目な流通業者は生産を支えたいが、大切な顧客には安全を届けたいという思いに引き裂かれます。
私たち自身が変わらなければならない
「絆」という言葉が流行する一方で、その絆は引き裂かれているという事実を目の前にして、私は実に悔いています。なぜ、このような社会のありきたりな一部となっていたのだろうと。今までも、今も、そしてこれからも無力であるとわかっていながらもなお、どうしてもこのことばかりを言い続けてしまうのは、「あの日から福島の時間は止まったままです」という声に触れてしまった宿命です。どれだけ応援などしても、実に小さなことにすぎません。『○○の賛否を論じる前に、私たち自身が変わらなければならない。』インドで受けた衝撃でした。その衝撃は、今もなお新鮮で、私自身が変わっていなかったことに対する悔いなのです。今年も福島には春が訪れます。昨年の福島の春はあまりにも儚く、そしてあまりにも美しかった。人間の愚かしさをしても、変わらない自然の営みがあります。「それでもなお、桜咲く。」 私たちはその淡々とした美しすぎる姿に、今年も心を奪われています。