あなたさまにおかれましては美しく、かけがえのない新年をお迎えになったことと存じます。あの辛い大震災から3年近くが経過し、かの出来事からそれぞれに多くを学び、また多くが変化しました。いよいよその学びや変化が、ひとつひとつ形になってくる年の到来です。私もまた、あのときからあらゆることが変わってゆき、良いことも悪いこともなんらかの形を伴ってくる1年と思い、今から気合をいれて臨んでまいります。
先日、ある禅寺の若い和尚の法話を聞きました。彼の大先輩である和尚は、70歳を超えてもなお、どんどん新しいことにチャレンジするのだそうです。先日も、全くやったことのない英会話のレッスンをスタートしました。若い和尚は、彼に「どうして、今から英語など勉強するのですか?」と聞くと、先輩は「いやぁ、来世ですぐに英語が話せるようになるからね」と答えたそうです。来世はどうか私にはわかりませんが、この話は、何をするのも、いつ始めても遅くないという大原則を教えています。また、私たちは、「ああ、今年もまた歳をとった。今までの人生で、最も年老いた自分になってしまった」と嘆くことがよくあります。しかし、和尚によれば、こうもいえるというのです。「これから未来の時間において、今は、一番若い。なんて素晴らしいんだろう」。つまり、過去は一切関係ないということです。時間軸が前に向かって伸びている人は、いつも前向きであり、時間軸を後ろに持っている人は後ろ向きという、まさに言葉どおりです。過去に対していろいろ思うことはあっても、結局そこを変えることはできないわけですから、変えられるのはこの瞬間、瞬間なのです。その積み重ねが未来を作っていくのですから、今からどうにでもなり得ますし、どれだけでも改善の余地があります。過去の重しというのは非常にどっしりと重量級で構えていて「前向きになれといわれても、今までこうだったものが、急にどうにもならないだろう」という言い訳の心を引き寄せようとします。大人になって、賢くなってしまった私たちはいつでもこういった「~だからできない」というもっともらしい論法を用意して、心を抑制しています。来世で英語が話せるようになるなんて、馬鹿馬鹿しいと感じてしまうというのは、実は私たちの世界観や認識から来るものと言うよりも、過去の重さゆえに自動的にそう感じてしまうのかもしれません。
さあ、そんな分かったようなことをいっている私ですが、実際のところは過去の塊です。ただ幸いなことに、私は断捨離というトレンドが始まる前に、ちょっとした事情から過去の思い出の品や写真をすべて失ってしまいました。昔、会社にいたスタッフが誤って私の生家を解体する許可を出し(会社の資金 借り入れの担保になっていたので、管理を任せていたためです)、一切合切すべて焼却場に運ばれました。気づいたのはその数ヶ月後のことでしたから、どこにいっても戻っては来ないと一瞬で諦めることができました。あれ以来、私は過去の品に思い出を重ねて行くことはなくなり、とても身軽になりました。断捨離云々で自分の意志でそれをやろうと思うととても大変なことですが、ありがたいことに私は強制的にそのようなところに追い出され、相当なレベルで心の自由を手にしました。それでもなお重しになるのが、この十三年間の会社経営の経験です。いろいろなことをニュートラルに判断しようと思うのですが、自分はともかく働いているスタッフのことを考えるとあまり過激なことはできないのです。あ、ついに「できない」と言ってしまいましたね! こうやって、私は後ろの重圧に引っ張られて、未来を閉ざしているのでしょう。できない理由は山ほどありますが、だからといって何かを変えなければ、新しい現実はやってきません。「精神の異常とは、同じことをやり続けて、違う結果が出ることを願うことである」という格言をどこかで聞いたことがありますが、じつに正しいと思います。自由とは、そうあって欲しいと願うものではなく、それを求め続け、変革することでのみ可能になるのです。さあ、そんな新しい気持ちをもって、新しい年を元気に活動してまいりましょう。どうぞ、あなたさまも素晴らしい1年をお過ごし下さい。