日本人がISに拘束され、殺害されてしまった事件から、そのような紛争地に行って命を落としたのは自己責任だという論調が広がりました。船で世界一周をと出発、途中で頓挫し、救助の費用は自己責任だから本人もちが当然、という話も重なり、結果的に災難を自ら招いたと解釈されると、それは本人の責任だから国費を使うべきではない、という話です。生活保護の件もしかりで、働かないでお金をもらえるなんていいよねという軽い世間話の文脈で語られることが多くなり、もしかするといつか自分も、ということはあまり話には出てきません。世の中全体がとても冷たい空気に包まれているように見えるのは、永く続く不況のせいなのか、和を尊ぶ日本人のメンタリティーのせいなのかわかりませんが、同盟国が攻撃されたら命をかけて応戦するという勇ましいところも人気が出てきて、とても不思議な感じがします。
ほんとうの自己責任とは
確かに、膨大な借金を抱えているこの国で、何でもかんでも国のせいだから国費で、ということには限界があります。今の財政危機はたんなる政治家のやり方の問題と言うよりは、それを選んだ国民の要求レベルの高さだったともいえます。それは「幸せに暮らす権利」は国が用意するべき、という暗黙のニーズでした。しかし、幸せとはそんなに単純なものなのでしょうか。お金をかけて社会基盤やインフラが整備され、社会保障が満足されれば、幸せはやってくるのでしょうか。交通事故の死者が社会システムの整備とともに減り続けている一方で、この国の自殺者は3万人を超える水準で推移し続けています。この数でさえも実態を反映していないという考えもあります。不審死とされる年間14万人の半数は自殺と認定するのがWHO基準であり、実は年間10万人以上、交通事故死の実に10倍以上の人が自らの命を自ら終えているのです。だから、まだ社会整備が弱い、もっと弱者に寄り添う政策をという声もあるわけですが、異常なレベルの自殺数の原因の一部は薬害であるともいわれています。病を治すはずの薬の影響でこうなってしまうことが少しでもあるとすれば、薬が簡単に手に入らないほうがよほど幸せの基盤ができている、とも考えられます。極論でいえば、どれだけ社会が豊かになろうとも、または世の中や環境が期待通りでないとしても、幸せを感じるか感じないかは個人の中にだけあります。確かに経済的基盤が豊かであることは、幸せに通じる大切な要素です。満足な食物が得られず、飢餓に貧している人と、病気を治すために極端な小食をしている人は、食べものから得られるカロリーのレベルでは同じです。かたや日々空腹の辛さを感じ、片方は病が去ることを夢見て空腹と喜びで向かい合うわけで、ここには二つの側面があります。一つは起きている現象をどのように解釈するかという心の問題、もう一つはどのような社会に暮らしているかという事実の差で、心だけでも、社会だけでもありません。たとえ同じ出来事であっても、前提として豊かさがないと、幸せを感じることは難しいのです。少なくとも私たちはそれなりの豊かさを既に手に入れているわけですから、残るのは心のあり方なのです。幸せを感じる、感じないの最終的な心の責任は私たち個々人にあり、誰も介入できません。
その前に必要なこと
心のあり方は個人の責任である、という一方で、その心の持ち主を進化・成長させることができるのは、実は周りにいる私たちです。たとえば会社を例にとってみましょう。成長の機会は、その周りにいる人たちからやってきます。大きな失敗をしたときに、支えることができる人には、それだけの経験やアドバイス、覚悟があります。学校でもおなじことです。子どもが成長できるのは、成長した教師がそばにいるときです。同僚も上司も教師も、成長した心の持ち主であれば多くの幸せを感じられる機会を提供することができます。親も、友人もおなじことです。しかし、彼らが全ての出来事の原因を外に求める人あればどうでしょうか。あのことは誰々が(もしくはあなたが)悪い、おまえはついてないよ、という結論にしか至ることができません。これで幸せを感じなさい、それはあなたの責任ですというほうが無理があります。どうも、ここまで考えてくると、自己責任の前には周りの責任があり、周りとはつまり、私たち一人一人のことなのです。国という概念が抽象化してしまい、実は個々の私たちの総和、共鳴であるという意識が希薄になって、問題は最終的にお金で解決するのが常になってしまいました。今、私たちが思い出すべきことは、「私は周りに責任を負っている」という自覚でしょう。はやりの言葉でいえばリーダーシップです。一人一人が、誰かの何かに繋がっていると思い出すとき、私たちは自らの責任を全うすることができます。その先にこそ、自ら幸せを感じるチャンスがあるのではないでしょうか。幸せは刹那であり、不幸の感覚は連続性をもっています。幸せをもたらすのは、幸せと感じる心であり、幸せを感じる心は、自他の幸せのために念じ、働くことからこそやってきます。結果に一喜一憂せず、今日なせることを共にやり続けましょう。