「日本の子どもたちの一番象徴的な点は、コーチに最初に『なにをやっていいんですか』と聞くんですね。ほとんどの国では『なにはやっちゃいけないんですか』と聞くんですね。これは全然違うことで、つまり許可された範囲を生きていくのか、自由が基本で許可されてない部分があるなかで生きていくのかで、もう広がり方が全然違うわけですね」。
学校での校則やルールに関するインタビューで、元陸上競技選手でオリンピック三大会連続出場の経歴を持つ為末大さんが、こんな回答をされているのを見ました。まさに今ちょうど、ルールというものについて深く考えてみるのに良いタイミングではないでしょうか。
自主性を育むには
「新型コロナウイルス対策のマスク着用について、原則として着用を推奨せず、 個人の判断に委ねることになります」。
こんな報道に思わず、これまでもずっと「個人の判断」じゃなかったのかとツッコミたくなりました。この三年余りでマスク着用が義務づけられたことは一度もないはずです。言葉としては「推奨」。場面ごとに「着けるほうが良いですよ」「できたら着けてくださいね」というレベルではなかったでしょうか。ルールですらありません。それなのにここにきての「個人の判断」と表現されることで、まるで着けなかった人たちがルール違反かのような印象を与えます。必要か必要でないかを自分で考え、自己判断で行動してきた人たちのはずです。
マスクの「解禁」をいつにするかの判断を政府が揺れていた昨年末の段階では、すでにマスクについての評価は済んでいて、「必要ない」という結論に至っているはずなのです。「解禁」する期日を設定する意味もハッキリしません。昨年のサッカーW杯の観衆をはじめ、海外では誰もがマスクなしだったのを見て感じるところはなかったでしょうか。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」。こんな言葉が流行ったのはもう四〇年ほども前のこと。現代でこんなことを言えば、ネット上で袋叩きされることでしょう。ただ、日本人の群集心理をついた表現であることは確かです。
正しいという字は「一」に「止」まると書きます。冒頭のスポーツの場面でコーチがルールについて伝える場面では、「なにをやっていいか」では止めようがありません。「なにはやっちゃいけないか」を尋ねられて、「ここからはみ出しちゃいけない」「ここまではやっていい」と止めることを伝え、なにをやればいいか各自が考え始めていくのです。
コーチ、あるいは上司や先輩といった導く側からすれば、「あれもだめ」「これもだめ」では自主性を育てようがありません。これは子育てでも同じこと。まずは好きなようにさせてみて、それからやるべきでないことを伝えていけば自主性や創造性は育まれていくものではないでしょうか。
そういった意味では、自主性の欠けた正しさというのは存在しないのかもしれません。
思い込みの壁
禅の言葉に「江山春色新」とあります。山には春が訪れて、新たな彩りをなしているということですが、そのことに気づける目を持っているかという問いでもあります。気づきによって、新たな目が開かれるともいえます。
思い込みや先入観というものを外してちゃんと見ることで、新たな面や、これまでは気づけなかったことに気づけるということ。ふと視線を上げてみることで、これまでとは異なる景色が見えることもあるのです。
決まりごとだと思い込んでいることでも、自分が嫌だな、しんどいなと思うようなことであれば、止めてみる、断ってみる。ちょっと、踏み外してみる。そこから見える景色があるかもしれませんね。