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特集

インタビュー取材しました。

元刑事が取り組む 生きづらさの解決
株式会社 kibi 代表取締役 榎本 澄雄 氏 インタビュー

投稿日:

『元刑事が見た発達障害』という書籍が、2018年に出版されました。この書籍の著者は、元刑事で、現在は発達障害の当事者とその周辺の人々の支援をおこなっている、榎本澄雄氏。榎本氏がそもそもなぜ刑事になったのか、そこからなぜ発達障害の支援に取り組むようになったのか、そして実際に今、どのようなことに取り組んでいるのか、意外なところからつながるその経歴と活動について伺いました。

 

株式会社 kibi
代表取締役
榎本 澄雄(えのもとすみを)

愛媛松山生まれ。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。警視庁警察官拝命後、麻布署刑事課・知能犯捜査係主任刑事として、社会的反響の大きい詐欺・横領・名誉毀損事件を数多く担当。6年あまりで警視総監賞四件、刑事部長賞七件、組織犯罪対策部長賞三件受賞。退職後は特別支援教育の現場に身を置く。著書に『元刑事が見た発達障害』、共著に『自傷・他害・パニックは防げますか?』がある。
機微の森 https://www.kibiinc.co/

ダンスにはまり紆余曲折そして警察官へ

――榎本さんのプロフィールでは、やはり「元刑事」というワードが印象的なのですが、子どものころから警察官、そして刑事を目指していたのですか?

榎本 もともとはまったく考えていませんでした。子どものころは、マンガやアニメ、ゲームの影響を受けて、東洋思想や陰陽五行、哲学的なものに関心がありましたね。私はスポーツが不得意だったのですが、中国武術や気功などで小柄な人が体格の良い人を吹っ飛ばすのを見て、そういった身体的なところに特に関心をもつようになりました。その関心は高校生になっても続き、進路を決める際、そういった研究ができるゼミを探して、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入りました。そのころは、研究者になり、研究の成果を自分に還元してスポーツの不得意を変えたいと考えていました。

――研究者を目指されていたんですね。その目標が変わったのはなぜですか?

榎本 大学に入ってから、北京に1年間留学をしたのがきっかけでした。留学生のなかには、日本以外にもアメリカのロサンゼルスなどから来た、いわゆる「イケてる」学生がたくさんいました。そういう学生に触発されて留学中によくディスコに行っていたのですが、そこでダンスにはまったんです。帰国してからはダンススクールに通い始め、本格的にダンスを始めました。

一方で、もともとは研究者になるつもりだったので、古流武術の道場に通いながら、剣術の素振りの動作解析をテーマに卒論を書き、大学院に進みます。ところがそのころには、頭はダンスのことでいっぱいで、研究に身が入らなくなっていました。しかも研究室の教授と合わなかったこともあって、大学院を1年で辞めてしまいます。

大学院を辞めた後、80年代に著名だったストリートダンサーが経営していた日焼けサロン兼ダンススタジオで、働きながらダンスを習うようになりました。その先生は大工を本業にしていて、サロンに加えて大工の仕事の手伝いを私もしていました。しかし、大工は朝が早くて日焼けサロンは夜が遅い仕事です。長時間労働なうえ、給料は安く、心身ともに調子を崩してしまい、結局はそこからドロップアウトします。

――それから警察官に?

榎本 最初は生活のために日雇いのアルバイトを探して、道路工事などの警備員として働いていました。それが25~26歳のころです。当時はまだ景気が良かったこともあって、警備員として生活できなくはなかったのですが、そのままずっと働くというイメージができませんでした。それに、当時は夜勤に入ることが多かったのですが、真冬の道路というのはものすごく寒くて、辛かったですね。安全靴をはいていても、道路の冷たさを足で感じるくらいなんです。それでほかの仕事を考えたときに、警備員の経験を活かしてできる仕事と考えて、警察官はどうだろうかと。もともと民間企業より公務員のほうが向いていると思っていたことと、公務員のなかでも現場で体を動かせる仕事が良いなと考えて、それなら警察官だと思ったんです。そのときはダンスを止めていたのですが、いずれ再開したいなと思っていて、ダンスも続けられる仕事が良いなと考えました。それが27歳のころです。そのときはまだ、警察官になったものの、刑事として働くとは思っていませんでした。

発達障害と社会との関わり

――榎本さんには、私がプレマの社員だった7年ほど前、神田昌典先生のフューチャーマッピング(全脳思考)※の講座ではじめてお会いしました。
そのときはまだ、現職の警察官だったんですよね。

榎本 ちょうど辞める3日前で、まだ現職でした。当時は仕事もプライベートもすごく大変なときで、かなりメンタルが弱っていたと思います。よく覚えているのですが、講座を受けるなかで無意識に涙が流れることもあって、自分で思う以上に無理をしていたんだなと感じました。

――警察を辞めたあとは、どうされたんですか?

榎本 以前から東洋思想や陰陽五行などに興味があったことと、講座中に出てきた話やアドバイスを参考にして、漢方や薬膳に関する仕事を始めようと考えました。まず、都内の飲食店を対象に、ニュースレターを始めようとして、1000軒にファックスDMを流し、多少申込はあったのですが、そもそも当時、私自身に知識や食材に対する情熱が不足していたこともあり、長続きしませんでした。

そこで、漢方や薬膳などの勉強は続けつつ、飲食店をお客さんにするなら飲食店のことを知る必要があると思い、飲食店で働き始めました。自分がなにをしたいのかわからなくなっているところもあったので、まずは働いてみようという気持ちもありました。それが2013~2014年ごろです。

飲食店で働いてみてわかったのが、今の飲食業界は人手不足など問題が多く、店を続けていくのがとても大変だということです。なじみのお客さんができるなど喜びもあったのですが、そのまま飲食店で働き続けたいか、自分で店をやりたいかというと、それは違うと感じました。

そんななか、並行して塾の講師としても働くようになりました。特に意図があったわけではなく、学生時代にアルバイトというと家庭教師や塾講師が定番だったので、そのイメージでなんとなく始めた感じです。ただ、学生のころと違い、社会経験を経た自分が教えるというのは、生徒にとって新鮮だったようですし、自分自身にとってもおもしろく、学びも多かったです。

――社会に出てからの経験で、特にこれが子どもに教えるのに役立ったという経験はありますか?

榎本 警察官時代、警部補になるための警察学校での研修が、記憶に残っていて、教えるということについて影響があったと思います。その研修は、メンバーも教官も濃い刑事ばかりで、研修の内容が本当にリアルなものでした。たとえば誘拐事件の訓練で、インカムをつけて実際に街中や電車で犯人役の教官を追跡し、公園で制圧するということをしました。訓練ということはお伝えするのですが、一般の方はびっくりされていましたね。そういった経験から、エンターテイメントというと不謹慎かもしれませんが、人の気持ちを掻き立てる、本能を呼び覚ますような要素は、教育において大事だと思うようになりました。

――飲食店で働き、塾の講師もされるようになり、そこから発達障害をもつ方の支援に携わるようになったのはなにがきっかけだったのでしょうか?

2017年7月の上智大学でゲスト講師を務めたときの様子。このころから、さまざまな場所で講演をおこなう機会が増えたという

榎本 塾の講師での経験から、教員免許はもっていなかったのですが、学校教育の現場でなにか役立てることはないかと考えるようになりました。そして、ちょうど当時住んでいた練馬区で、学校でサポーターをできる人を募集していたのを見つけ、申し込んでみたんです。すると、区立小学校の特別支援学級で支援ができる人を探していると連絡がありました。それがきっかけです。実は、刑事だったころ、ある事件で発達障害をもつ人を担当したことがありました。それもきっかけのひとつといえるかもしれません。

その後、横浜市青葉区のあざみ野というところにある、放課後等デイサービスという発達障害のお子さんを預かっている施設で、非常勤の職員として1年ほど働き、理事も務めました。

――そのころの活動を書籍に書かれていますよね。今はどういった活動をされているんですか?

榎本 発達障害をもつ子どもたちに関わるようになったことで、その保護者や支援者、また、子どもだけでなく成人した発達障害をもつ当事者にもよく会うようになりました。今は、そういう人たちを支援したり、一緒になにかプロジェクトを進めたりする活動が多くなっています。2018年に『元刑事が見た発達障害 真剣に共存を考える』(花風社)という著書を出したのですが、そのころから、講演や執筆などの活動を増やしつつあります。ざっくりいうと、「人と話す仕事」と「書く仕事」ということになりますが、これは自分の感覚としては、刑事のころから変わらない仕事です。「戻った」ともいえるかもしれません。

発達障害を大きくわけると、自閉症的な「アスペルガー障害」、注意散漫な「ADHD」、字の読み書きや計算など特定分野が苦手な「学習障害」とわけられます。2~3つを合わせもつ人もいますし、その程度は人それぞれです。昔は大人が診断を受けることは稀だったのですが、今は発達障害の診断を受ける大人がどんどん増えており、一見そうとわからない人もいます。ただ、診断を受けるのは個人の自由ですが、診断には薬がセットになるため、薬に頼りすぎてしまうことが心配な点です。私が本を出版した花風社では、発達障害、特に自閉症関連の書籍を多く出版しているのですが、薬に頼りすぎることへの警鐘を鳴らす書籍が少なからずあります。医療をすべて否定するわけではないのですが、薬をやめられないというのはやはり心配なことです。薬に頼りすぎず、きちんと眠れて、栄養をきちんと摂れて、健康になれる。できれば仕事もきちんとできる。そういう方向を目指さないと、日本は将来大変なことになるのではないかと思ってしまいます。

また、診断を受けて名前がつくことには、良い側面と悪い側面の両方があると思います。名前がつくことで気持ちの整理がつく一方、名前に捕らわれてしまう、人からそう見られてしまうという悪い面もあると感じています。残念ながら、そのことでその人の能力が正当に評価されない場面も少なくありません。

アメリカの精神医学会が定める基準では、発達障害は神経発達の障害であるとされています。この考えに立てば、神経を発達させれば、発達障害による生きづらさの症状を改善することが可能です。私自身、それを子どもの支援のなかで体験してきました。子どもだけでなく、発達障害をもつ大人の当事者や、その保護者や支援者と一緒に仕事をしたりプロジェクトを立ち上げたりすることで、その人がその人らしく生き、仕事を楽しめるようになってほしいと考えています。

――2020年はどのような活動を予定されていますか?

榎本 2018年に本を出版して、2018~2019年は講演に呼ばれることが増えました。それが一段落して、もっと自分にできることはないだろうかと考えるようになっています。

直近では5月6日に、発達障害をもつ子どもたちに向けて、音楽療法士の人と一緒に太鼓を作るというワークショップを開催予定です。

また、元刑事として、いろいろな犯罪の被疑者、刑務所や少年院から出てきた人に関わってきたなかで、そういう人のなかには発達障害をもつ人が多いと体験的に感じています。発達障害をもつ人がいる家庭では、愛着障害※が生まれやすいと感じます。これまでの経験から、さまざまな犯罪や、犯罪とまではいかないパワハラ、セクハラなども含めて、そこには愛着障害が深く関係しているのではないかと思っています。だから、そこに対する支援ができないかと。相当リスクがあることなので、慎重に考えてはいますが、やろうとする人も少ないだろうし、できる人もすごく少ないなかで、それならば自分がという気持ちがあります。

※経営コンサルタントの神田昌典氏が開発した目的達成のためのメソッド。
※養育者との適切な愛着関係が築けないことに起因する問題。

- 特集 - 2020年3月発刊 vol.150

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