弊社に届いたメールをきっかけに、淡路島でオリーブオイルの生産が盛んになっていることを知った編集部。秋のある日、オリーブの収穫まっただなかの農園を訪問しました。案内してくださった、一般社団法人淡路島オリーヴ協会の土居さんに、故郷の淡路島でオリーブオイルの産業化に挑戦し続けている思いと活動について伺いました。
一般社団法人淡路島オリーヴ協会 代表理事
土居 政廣(どい まさひろ)
兵庫県淡路島生まれ。大手外資系食品メーカーであるネスレで、パスタやオリーブオイル等イタリアの食品の製品開発やマーケティング、新規事業開発に長年携わる。その間、イタリアに120回以上訪問。海外勤務や社外留学を経験する。2009年に淡路島でオリーブの試験栽培に成功。2013年に淡路島オリーヴ協会を設立(2016年に社団法人化)。淡路島産のオリーブオイルを広めるべくさまざまな活動に取り組んでいる。一般社団法人 淡路島オリーヴ協会:http://awajishima-olive-association.org/
海外でビジネス経験を積み
イタリアの食文化に親しむ
——淡路島のご出身で、どんな子ども時代を過ごされましたか。
南あわじの見渡す限り山と田んぼという風景のなかで、ごく普通の田舎の子どもとして育ちました。代々大工の家系で、祖父が棟梁をしていたので、家の中にたくさん大工道具がありました。父が高所恐怖症だったので後を継げず、祖父は私に継いでほしかったようですが、私は都会に憧れていたので大学進学を機に淡路島を出ました。立命館大学で産業社会学を学ぶうちに、マーケティングに興味を持ちましたので、卒業後は外資系の食品会社であるネスレに入社しました。日々実践的なマーケティングに取り組んでいる会社でした。
——どんな業務を担当されていたのですか。
最初は営業です。入社してすぐにこの会社では英語ができなければ上にいけないと悟りまして。ボーナスで買った英語教材や、NHKのラジオ英会話などで猛勉強しました。会社がそれを見て英会話学校に通わせてくれたこともあり、英語を習得すると、次第に海外に行くチャンスが増えていきました。神戸本社への登用制度で抜擢され、2年間本社でマーケティング業務に従事しました。当初日本でネスレといえばコーヒーがメインでしたが、日本で冷凍食品などの新商品を開発・展開する食品事業部が立ち上がったのです。私はブランドマネージャーとして欧州の食品ブランドであるマギーやブイトーニを担当し、その間、世界中にあるネスレの工場や研究所を訪問する機会がありました。なによりも幸運だったのは、スイスのIMDというビジネススクールに留学させてもらったことです。学術的なことはもちろんですが、グローバルにビジネスを見る視点を養えたこと、世界中の仲間とネットワークを築けたことは、その後のキャリアにとって非常に大きな財産になりました。
——欧州と日本を行き来するなかで、食文化をどう見ていらっしゃいましたか。
最初にスイス本社に赴任した際は、本社がローザンヌにほど近いフランス語圏の村にあり、フランス料理を食べていました。当時は単身赴任で外食が多く、コテコテのフランス料理に2ヶ月でギブアップしてしまったんです。それから、毎週金曜日に仕事を終えると夜行列車でミラノやローマに向かい、イタリア料理を堪能してから月曜日の朝に戻るということを繰り返していました。もちろん、「イタ飯」が目当てです。パスタや米、オリーブオイルは日本人の口にも合うんですね。その後ブイトーニを担当してからは、イタリアの食文化により深く触れるようになりました。ブイトーニには「カーサブイトーニ」といって、製造拠点と、商品開発などをするマーケティング拠点と、ゲストハウスでお客様をもてなす広報拠点を兼ねた施設があり、そこに頻繁に通いました。そこでは、お客様にイタリア中世のディナーを再現したものを提供したりしていましたね。イタリア人は、食に関してとても保守的です。日本の都道府県のように20の州があり、パスタの形、オリーブの品種、ピッツァの形から乳製品まですべて違います。郷土の食文化が愛され、頑なに守られているんです。美味しさはもちろんですが、イタリア人の食と向き合う姿勢に惹かれました。そのときの憧れや尊敬の気持ちが、現在の自分の事業のあり方にもつながっています。
輸入オリーブオイルの
実態に衝撃を受けて
——1990年代に日本では「イタ飯」ブームもありました。事業展開は順調にいったのでしょうか。
それが、苦難の連続でした。かなり大きな失敗もしましたね。ネスレは資金力が大きいぶん、当然、売り上げ目標もグローバルスタンダードを求められます。一定期間にそれを達成することが評価になるのですが、日本で新規事業を立ち上げて商品を生産していくには、それなりの設備が必要だし、流通や営業の部隊など、さまざまな資源がなければ成り立ちません。日本でチルド(冷蔵)のパスタを展開したときは、資源確保のために、他社との提携事業や外部委託をしたのですが、自社で完全にコントロールできないため、目標達成が非常に難しい状況でした。結局、巨額の赤字を出す結果になりました。それでも、本社と掛け合って、冷凍パスタに切り替えてなんとか首がつながったというか。その後、紆余曲折あり、買収した大手飲料メーカーの再建を任されました。一言でいうとリストラ要員です。従業員を数百人解雇し、営業所を半減し、徹底的に事業を再構築をするというのは、苦しくもいい経験をしたと思います。一定の成果をあげ、子会社の役員になった時点で、ネスレを早期退職しました。以前から誘いを受けていたイタリアのディチェコ社に就職すると同時に、個人でイタリアの食品を輸入販売する会社を起業したのです。ディチェコ時代は、日本のカントリーマネジャーとしてやりがいもありましたが、50代後半でしたから、月に何度も海外を往復する生活に体力の限界を感じて、5年勤めた後に退職しました。その後、本格的に淡路島でのオリーブ栽培に取り組み始めたのです。
——ご自分で会社を始めたこと、また淡路島でオリーブ栽培を始めたきっかけはなんだったのでしょう。
イタリアやスペインで、輸入オリーブオイルの実態をつぶさに見て衝撃を受けたからです。特にスペインには大規模な農園が多く、広大な土地に植えたオリーブの実を機械でばーっと収穫し、トラックに積み込んで加工所に運び、コンクリートの上に下ろします。野積みにしたオリーブの下のほうは潰れてカビが生えていたりするものを、ショベルカーですくいあげて洗浄槽に入れるのですが、洗浄するといっても泥水です。それを平気で油にしていくんですよ。味は大丈夫なのかと聞くと、精製すれば問題ないと。どんな油でも強力なフィルターをかけると無味無臭になります。生産者のなかにはオリーブオイルだけではなく、精油業者としてコーン油やパーム油など、多種類の油を扱っていることも多い。すると、そこにエクストラオリーブオイルを香り付け程度に混ぜて製品にされることも起きます。値段が安いからなにかあるんだろうとは思っていましたが、あまりの酷さに驚きました。原料偽装、産地偽装が当たり前の世界です。ヨーロッパで出版された暴露本によると、すべて大手の精油会社でした。一方、イタリアの田舎に行くと、小規模の農園で、丁寧に育てたオリーブの実を収穫後すぐに搾油し、タンクに保管しているオリーブオイルもある。でもそういう良質なものが日本に入ってくるのはごく稀です。私たちは、誰が栽培して誰が加工したかが見えないオリーブオイルを食べている。その両極端を見たときに、日本でオリーブオイルを生産できないかと考えるようになりました。
——それで、淡路島でオリーブ栽培を始めたのですね。
淡路島がオリーブの栽培適地であることに気づいたんです。まず実家の裏庭に、イタリアから持ち帰ったオリーブの苗木を17本植えてみました。オリーブは地中海や中近東などの日照時間が長く雨の少ない乾燥地帯でよく育ちます。淡路島も年間雨量が比較的少なく、日照時間は関西で最も長いので、乾燥している。裏庭は石がゴロゴロしているような、決して良い条件ではありませんでしたが、すくすく成長していくので、これはいけると思いました。日本でやるなら、イタリアの小規模農園のやり方で、栽培、収穫、加工まですべて目の届く範囲でやるというビジネスモデルも見えてきました。さらに、私の出身地である南あわじ市が抱える社会課題も見えてきて、協働で進めていくことになったのです。
耕作放棄地を
オリーブ畑に
——南あわじ市が抱える課題とはなんでしょう。
日本の地方全般にいえることですが、農業従事者の高齢化が進み、耕作放棄地が増えていることです。淡路島の農産物は主に米と玉ねぎですが、米は供給過剰で、玉ねぎ栽培は重労働。オリーブは比較的楽に栽培することができます。そこで市の協力を得て、農家さんの空いている土地に、オリーブの苗木を植えてもらうことを始めました。もちろん、一筋縄にはいきません。農家さんは代々大事に田んぼを守ってきた方たちですから、田んぼに木を植えるなんてとんでもないと、かなり怒られました。次に土壌ですが、水田跡は粘土質のため水はけが悪く、最初に植えた数百本は枯らしてしまいました。試行錯誤の末、オリーブ専用の土を大量に作って、田んぼに穴を掘り、粘土質の土と混ぜてから盛り土にすることで、うまく育ち始めたんです。少しずつ理解してくださる方が増え、活動を始めて14年目の今では7500本にまで広がっています。私がイタリアを訪れるなかで印象に残ったのは、丘陵地帯にオリーブの木が整然と植えられている、田舎の景観の美しさです。淡路島では、平地を見れば耕作放棄地に草が生え放題で、山は竹やぶ化している。微力ながら、オリーブの木を植えること、淡路島産のオリーブオイルを産業化することで、少しでも故郷の役に立てればと考えています。
——会員制度をとられていますが、何名いらっしゃるのですか。
現在は60名で、そのうち法人が20社、残りが栽培農家さんと個人の賛助会員さんです。最近は大規模にオリーブ栽培を始める企業や、興味を持ってくれる若者が出てきているので、嬉しいですね。なかには放置されていた山を切り拓いて、斜面にオリーブ畑を作ってしまった若者もいます。一般の方向けにも、オリーブ収穫体験や、料理教室などさまざまな形で淡路島のオリーブに接してもらう機会を設けています。
——どのようにオリーブオイルを生産されているのですか。
収穫期の9月〜11月に、手摘みされた果実を農家さんから買い取り、自社の搾油工場へ持ち込んで搾油し、専用のタンクで保管します。収穫から48時間以内が目標で、非加熱、ノンフィルターなのでとても新鮮です。オリーブオイルは収穫時期によって「フルーティー」(若い実)と「リッチ」(熟果)の2種類。現在はまだ生産量が少ないため、島内の直売所や、会員様への優先販売、月に1回、東京の二子玉川の高島屋で出張販売しています。店舗でお客様と直に接して、私が栽培したオリーブですとお伝えすると、安心した表情を見せてくださいます。その裏には、輸入オリーブオイルに対する漠然とした不信感があるように思います。安心して手に取っていただくためには、顔が見えるということがまず大切。そのうえで、幸いにも淡路島産オリーブオイルのブランド化が進んでいますので、輸入オリーブオイルのような産地偽装や原料偽装を生じさせないために、品質基準をコントロールする仕組みづくりに取り組んでいます。ひとつは、地域団体商標の取得。もうひとつは、国の補助金を受けて、関係する方々を十分に支援していくことです。輸入オリーブオイルと同じ土俵で競争していくにはまだ遠い世界ですが、まずは産業として地域にしっかり根付かせていくことが、いずれ国内での地域間競争に勝ち抜いていくためにも重要だと考えています。2025年の完成予定で、観光拠点となる「オリーブ公園」の建設計画も進行中です。
——ずっと新しい道を開拓されてきていますが、その原動力はなんですか。
ひとつは、会社員時代に新しい事業を立ち上げては消え、ということを繰り返してきたので、この人生でなにか形に残るものを残したいという執念のようなものですね。そして今思うのは、淡路島産オリーブオイルの事業は、決して一人ではできないということ。協力してくださる農家さんをはじめ、行政の方や企業、協会のメンバーなど、大勢の方を巻き込んでいるので、みんなの喜びにつなげたいという思いが大きいです。それはプレッシャーでもありますが、仲間がたくさんいること、喜んでくださることが私の一番の喜びです。まだ長い道のりですが、楽しんでいきたいと思います。