きのくに子どもの村通信より

【Vol.40】愛育心理研究会・通信 ニイルの自由の理論 2009.3.5

きのくに子どもの村通信より

学校法人きのくに子どもの村学園
かつやま子どもの村小・中学校
かつやま子どもの村小・中学校の教育目標は「自由な子ども」です。生き生きとし、好奇心旺盛で、集団生活に必要なマナーを身につけている子どもです。

〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3
TEL 0779-83-1550 FAX 0779-83-1833
http://www.kinokuni.ac.jp/katsuyama/


子どもと共に笑う

 最もよい教師は子どもと共に笑う。

 最もよくない教師は子どもを笑う。

 ニイルはルソーについで気のきいた名言の多い教育家である。これは、数多いニイルの名言の中でも私が最も好きなものである。著書や訳書にサインを求められると、たいていこれを書き添えることにしている(残念ながら『新訳ニイル選集・全5巻』の中にはない)。

 私がこのことばが好きなのは、とても深い意味が込められていると感じるからだ。

 ドイツの文豪ゲーテは、70歳を過ぎてから、17歳の少女に恋をして、正式に求婚したという。真剣で誠実だったのだ。彼女は母親と二人暮らしだったのだが、母親は驚いて娘とともども姿をかくしてしまった(母親は、はじめは自分への申込みだと思ったらしい)。この話を聞いて人はなんと感じるだろうか。

 「とても信じられない」、

 「正気かな」、

 「すごいなあ、若いなあ」、

 「純粋な人なんだ」、

など、さまざまだろう。中には「助平じじい」と笑う人もあるかもしれない。皆さんはどう思いますか?

 ゲーテといえば『若きウエルテルの悩み』、『ファースト』、そして「ミニヨン」など多くの詩で知られる偉大な作家だ。宮廷の要職にあり、社会的名声も高く、いわば功なり名を遂げた人である。そんな人が70を過ぎてなぜ?

 答えは明白だ。彼は若いウエルテルと同じ心を終生もちつづけたのだ。社会的役割を立派に果たす一方で、彼は、美しく、はげしく、悲しくて、しかし偽りのない自分自身を生きていたに違いない。多くの人は、この心を忘れ、干からびさせ、あるいは封印して、肉体的にも精神的にも老いていく。

 子どもたちもまた、この美しく、はげしく、悲しくて、偽りのない自分自身を生きている。日常的に、そして自然に生きている。それはしばしば大人の中のその心を呼び覚ます。その時、両者に共感が生まれ、その共感がおのずとほほ笑みをもたらす。ニイルが「子どもとともに笑う」という時、それはけっして表面的な笑いやバカ笑いではない。心と心が深いところで響きあうのだ。

 こうした共感のほほ笑みは、子どもが困った行為をした時でさえ生まれる。最近、きのくにのお転婆6年生の5人組が、担任の目を盗んで勝手にごはんを炊き、塩をおかずに腹いっぱい食べた。おなかが空いて死にそうだったからだといいはっている。しかし、彼女たちは気づいていないだろうが、たぶんそういうヤンチャ自体に意味があったのだろう。

 こういう悪戯をされると大人はあきれ腹を立てる。けれど心の深いところでは許してしまう。そしてほほ笑む。私たちの心の奥に閉じ込められていた何かが呼び覚まされるからだ。そこに共感が、ほほ笑みが、そして哄笑が生まれる。教師も子どもも不思議な幸福感につつまれる。子どもと共に笑う教師はしあわせな教師である。

 イスラエルの哲学者マルチン・ブーバーの著書に『我と汝』というのがある。「我と汝」とは、心と心が深く触れ合っている関係をいう。自分にとって特別の存在と触れ合っている時、相手はたんなる「あなた」ではない。愛しあう親子、抱きあう夫婦や恋人、信頼しあう友など、存在を共にするかけがえのない「なんじ」であり「おまえ」である。(ゲーテが求愛した時、彼は心を開いて少女に「なんじ」と呼びかけたのだ。)

 子どもと大人が共に笑う時には、このような関係が成立している。子どもは大人よりもひんぱんに、そしてごく当たり前に「我と汝」の関係でつき合おうとする。ちなみに「我と汝」と対照的なのは「我と彼」の関係だ。この関係は、気をつけないと「我とそれ」の関係へと転落する。

 フランスの哲学者ガブリエル・マルセルも同じことをいっている。存在の関係と所有の関係だ(『存在と所有』)。前者は「共に在る」または「相手の存在に参与する」関係である。この時には距離がない。両者をつなぐのは肯定であり愛である。後者は距離をおいて「見る」関係である。距離がないと見ることはできないのだ。しばしば「利用する」関係に成り下がる。前者の関係は魂全体同士のふれあいであり、後者は部分的な交際、つまり人格の一部だけでかかわりを持つにすぎない。

 私たちは子どもといると、しばしば理由もなく笑えてくるのを感じる。笑うのではない。自然に笑えてくるのだ。それはとても幸福な瞬間である。

 私たち教師は、いや大人は、この幸福を子どもたちに感謝しなくてはいけない。この幸福には、自分が心理的に解放され成長しているという実感と喜びがともなうことが多い。この大人の解放と成長の喜びが最も感動的に語られているのが、ジョージ・エリオットの『サイラス・マーナー』(岩波文庫)だ。人間嫌いで、偏屈で、ごうつくばりの、したがって孤独な老人のところへ、ある日とつぜん一人の幼子がやってくる。この子をきらい、呪っていたサイラスだが、やがて無邪気な心に次第に反応し心を開かれていく。そして子どもと共に笑う幸福な男になっていくのだ。

【Vol.39】月間『部落解放』(2009.7)教育改革は体験学習から ―北九州子どもの村小学校の「プロジェクト」―

きのくに子どもの村通信より

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かつやま子どもの村小・中学校の教育目標は「自由な子ども」です。生き生きとし、好奇心旺盛で、集団生活に必要なマナーを身につけている子どもです。

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 もう二十年近く前のことである。私がまだ大阪市立大学にいた頃の話だ。研究室で幼児教室を開いていた。おもちゃ作り、料理、そして絵本作りが主な活動で、見本はあるが、作り方は自分で考える。これが大原則だ。子どもたちはすごく熱心に、たくましく制作に  
 
「すみません。そのキャベツを半分だけ売ってくれませんか。」

 「えっ、もう半分にしてあるよ。」

 「そのまた半分だけほしいんです。」

 「四分の一ということ?」

 「はい。なんとかお願いできませんか。」

 「えーっ! どうして?」

 野菜売り場のおばさんが絶句する。お客は三人の小学生だ。学校の体験学習で「やきうどん」の材料を買いに来ているのだ。3、4人ずつのグループに分かれ、500円の予算で、具やつくり方をそれぞれに工夫する。キャベツを半分買ってしまうとお金が足りないのだ。おばさんは話を聞いて納得し、こころよく四分の一に切ってくれた。子どもたちは大喜びだ。

 学校の名前は、北九州子どもの村小学校という。開校して四年目になるが、今年から和歌山にある「きのくに子どもの村学園」と姉妹校になった。きのくにと同じように「プロジェクト」と呼ばれる体験学習をカリキュラムの中心にすえている。一週間の時間割の半分がプロジェクトだ。

 もっとも体験学習といっても、考え方も実際の進め方も、普通にイメージされるのとはかなり違っている。

1・自由な知的探求である。

 体験学習というと、たいていの人は、手や体をつかい実物に触れる活動を考えるだろう。しかし、子どもの村の体験学習は、たしかに手も体もつかうけれど、何よりも頭をつかう活動だ。生きていく上で大事な問題、とりわけ衣食住に題材をとって、子どもたちが積極的に、そして自発的にその解決に取り組む。上のキャベツの件にみられるように、子どもたちはさまざまに知恵を絞り、仮説を立て、検証し、失敗したらまたやり直す。子どもの村のプロジェクトは、デューイのいう「活動的な仕事」としての知的探求なのだ。

2・多方面へ発展させる。

 北九州はやきうどんの発祥の地である。みんなの自慢の郷土料理を中心にして学習が組み立てられる。だから楽しいし、興味も長続きする。しかも、この活動はいろいろな分野への発展の可能性を秘めている。調べたり書いたりして「ことば」(国語)へ、値段や数量の計算から「かず」(算数)の学習へ、郷土学習から社会科とくに地理へ、うどんの容器づくりから焼き物や工作へ、というようにどんどん活動と学習が広がる。

3・総合的な発達をめざす。

 子どもの村の「プロジェクト」は、体験中心の総合学習といってよい。しかしたんなる合科学習や教科の寄せ集めではない。もっとスケールが大きい。発達のすべての側面が、活動を通して促進されるように、という意図を持って計画され実行される。まず、手と体と感覚が総動員される。感情面が解放されるだけでなく、達成感から生まれる自信や自己肯定感が生まれる。さらに知的探究の態度と能力、つまり小さな科学者のように考える力が養われ、さまざまな知識や情報が獲得される。それだけではない。話し合いや共同作業によって、ふれあいや信頼関係が生まれ、人間関係の術が身につく。

 現代の学校では、教科書の中身の伝達だけが異常に大事にされている。教育はもっともっと広くてゆたかな内容を持っているはずなのだ。教科の伝達という狭い観念から学校教育を解放しよう。そして子どもたちの全面的な発達を援助しよう。これが私たちのプロジェクトのねらいである。

 見学者は、ほとんど例外なく「子どもたちがみんな元気だ。生き生きしていて幸福そうだ」という。じっさい、みんなとても溌剌としていてたくましい。「学力は大丈夫か」と心配する人もあるが、卒業生たちの高校などでの成績はびっくりするほどよい。

 かつてA.S.ニイルはいった。

 
「まず子どもを幸福にしよう。すべてはそのあとにつづく。」(『問題の子ども』)

 プロジェクトに取り組む子どもたちは幸福だ。そして、いろいろな面でたくましく成長する姿がそのあとに続いている。

【Vol.38】自由教育の名言2. 叱らぬ教育

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かつやま子どもの村小・中学校の教育目標は「自由な子ども」です。生き生きとし、好奇心旺盛で、集団生活に必要なマナーを身につけている子どもです。

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●叱らずにはいられぬ人

 もう二十年近く前のことである。私がまだ大阪市立大学にいた頃の話だ。研究室で幼児教室を開いていた。おもちゃ作り、料理、そして絵本作りが主な活動で、見本はあるが、作り方は自分で考える。これが大原則だ。子どもたちはすごく熱心に、たくましく制作に励んだ。このときに得たハウツーが、子どもの村の基本原則の起源である。

 母親教室も併設していた。話を聞いたり、本を読んだり、子どもと一緒に作ったりしてもらった。多くの母親は、日頃の育児態度の問題点に気づき、しあわせな親子関係をきずいていった。しかし中には変わりにくい人もいた。

 Aさんはその典型だ。「うちの子は…」と愚痴がとまらない。もちろん子どもに対しては、小言の連続だ。口癖は「叱ってはいけないのわかってるんですが…」である。「いい子ですよ」と何度いってあげても、頑張っている様子をビデオで見せても「そんなはずは……。堀先生の前だけ…」と譲ろうとはしない。

●問題の子ども問題の親

 子どもの悪いところばかり目に付く。他人がほめてくれるとムキになって否定する。こういう人はなかなか変わらない。なぜだろう。この疑問を解く鍵は、ニイルのことばに見つかる。

 「困った子というのは、実は不幸な子である。彼は内心で自分自身とたたかっている。その結果として外界とたたかう。」

 つまり無意識の深層で、本来もっている生命力と、生後に外界から与えられて内面化した超自我とが葛藤している。こういう子は、不安、緊張、自己否定感に悩んでいる。不幸なのだ。

 右のニイルのことばは、次のように続く。

 「困った大人も同じ船に乗っている。」

 叱らずにはいられない大人も困った大人だ。自分では気づかない抑圧と自己否定感に支配されている。感情的に不目由なのだ。冒頭のAさんもその一人であることが、後になって判明した。子どもの頃に、母親から「お前はダメな子だ」と口汚く叱られ続けた不幸な人だったのだ。そのまた母親も同じような人だったのだろう。

●自己決定の力をつける

 叱るというのは、いかに弁明しても相手を否定する行為だ。しかも「大人は道徳的に正しい」という前提に立っている。倫理規範の代理人を自任している。しかしニイルのように子どもの自己決定の力を信じる人は、子ども目身による問題の認識と解決を大事にする。サマーヒルでミーティングが学校生活の中心にあるのはそのためだ。もちろん大人が子どもの困った行為に言及することは
ある。しかし道徳の代弁者として叱るのではない。「それは困る」とか、「ほかの子に迷惑がかかっているようだよ」と気づいてもらう言い方である。

●叱らずにすませるコツ

 叱らずにいられない人は不幸だ。しかし、内面の不自由からの自己解放は簡単ではない。そこで「子どもを叱らずに済ませるための五か条」を紹介しよう。

 ?子どもを抱っこしよう。
 子どもを抱きしめ、背中をとんとんしている時に小言をいう気になる人は、まずいない。

 ?肯定的評価
 子どもの言動をプラスの面から見てあげる。約束に十分遅れた子には
「十分しか遅れなかったね」といおう。

 ?道徳の代弁者をやめる
 「よい、わるい」をいわない。その行為がほかの人に迷惑がかかっていることに気がついてくれれば十分だ。

 ?私メッセージ
 善悪の理屈をはなれて、正直に自分の気持ちを伝えよう。「ダメ!」とか「悪い子だ」とはいわないで、「それは困るんだよ。何とかして欲しいな」といおう。

 ?能動的な聞き方
 カウンセリングの反復法の技法だ。子どもの訴えや不満や抗弁を、そのまま確認して返す。子どもは自分が受容されているのを感じる。また自分で解決策に到達することが少なくない。最後にもう一度。

叱らずにいられる人は幸福だ。