魂がオッケーサインを出すまでは
ロサンゼルスで生まれた二人の息子たちと共にハワイへ引っ越したのは、長男が6歳、次男が4歳のときでした。
家庭では日本語、スクールでは英語という環境のなかで、長男は順調にバランス良く英語と日本語の両ランゲージを話せるようになっていました。
しかし次男はなかなか言葉が出ず、単語をぽつぽつ発するばかり。
いつも夢の世界を漂い、注意は次々に目の前に現れる刺激に移ります。
ある程度の発達の遅れは認識していましたが、子どもにはなるべく多くの時間をイマジネーションの世界で遊ばせたかったので、本人の魂が準備オッケー!サインを出すまでは、無理に現実の世界へ引っ張り出すようなことはしませんでした。
人間として生きていくのに一番大切な力、“創造力”を守り育んでいくことこそが、親として子どもにできる最大の支援だと感じていたからです。
その子の成長、その子の個性を、人にどんな目で見られようと、学校でどんな評価を受けようとも、在るがままでオッケー!
十人十色みんな違うオリジナルキャラクター、“自分らしさ”というものを損ねないように、そのパーソナリティーを100%尊重することを大切に育ててきました。
忘れっぽい息子をからかう母
ハワイへ引っ越して間もなくのこと、私のその信念を、さらに強化させるような出来事が起こりました。
ハワイの新居を見るために、日本から私の母親、つまり息子たちのおばあちゃんが遊びにきたときのこと。
当時私は34歳。
まだ自身のインナーチャイルドを癒しきれておらず、その傷ついたインナーチャイルドの解放の仕方を知らなかったころのことです。
幼少期の母親との関係性から生じたトラウマ・悲しみの記憶は、時の経過という眠り薬で忘却の彼方へ追いやり、ネガティブな感情はすべて解消されたような錯覚を抱いていました。
しかし滞在中、母の次男に対するある態度を目撃したときインナーチャイルドが瞬時にして目を覚まし警鐘を鳴らしたのです。
「気をつけて!また傷つくよ!」
恐るべし、人間の持つトラウマに対する自己防衛反応。
まだこれほどまでに癒しきれていない恐怖心を持っていたのかと、自分でも驚くばかりでした。
注意欠陥多動障害を持つ次男は、幼少期は特にその症状が顕著で、気が散りやすく忘れっぽい特徴を持っていました。
そんな次男をからかうように、母は次男のお気に入りのイルカのぬいぐるみを隠して遊んでいたのです。
イルカに集中していた息子の意識を別のところへ向けさせ、その隙にイルカを隠し、イルカがいなくなったことにしばらく気づかない息子をケラケラと笑い、「あなたイルカどうしたの?」とイルカのことを思い出させ、「ない、ない」と言って半べそをかきながら必死に探す息子をまた笑う。
次男は、意識を一点に集中していて遊んでいたとしても、別の刺激が現れると、すぐにそちらへ意識が向いてしまい、それまで集中していたことを瞬時に忘れ、次に没頭してしまうのです。
イルカをどこに置いていたのか?
それまでどんな遊びをしていたのか?
ちょっと前のことも思い出せません。
ただ突然イルカが姿を消したことにパニックになり、泣きながら家中を探し回るのです。
その姿を見て母は笑いました。
「可愛い可愛い、この子、すぐに忘れちゃうのね、どうして?わははは」
この母親の次男に対する態度を目の当たりにした私は、自分も幼少期に同じことをされていた!という悲しみが、一気にフラッシュバックしたのです。
母は次男のそんな純粋無垢な仕草が可愛くて、ちょっとからかうつもりでやったことかもしれません。
けれど私からしたら、それがとても侮辱的な行為で馬鹿にされた気持ちになってしまったのです。