「女は彼に問うた。その大国とはどのようなものなのかと。彼は言った。それは種に似ている。ひと粒のからし種のようなものだ。女がその種をとって畑へまけば、それは大きく成長して、空の鳥がきて、枝に巣をかけるまでになる」。
これは、映画『マグダラのマリア』の冒頭に出てくる聖書の一節です。私はいつも、子どもたちの持って生まれた魂の資質について語るとき、それを「種」と表現していたので、映画の冒頭でこのナレーションを聞き、魂が震えました。聖書に出てくる「からし種」は〝信仰〟の比喩なのかもしれませんが、私はそれを、全人類が皆平等に持っている、大いなる宇宙(愛)のわけ御霊としての資質のように感じたのです。本当の姿、本性とも言えるでしょうか。その資質を育み、自由に開花していく力を妨げなければ、堂々と花を咲かせ、実を生らせると。それこそ、生まれてきた目的を果たしながら生きる、真の自己実現が〝大国〟なのではなかろうかと、映画を観て改めて気づくことができたのです。
種の殻を破ること
からし種はひと粒の大きさが0.5ミリくらいととても小さいのですが、その小さな種が殻を破り、芽を出し、茎を太くして成長すると、たくさんの果実を実らせます。
先日セッションにいらっしゃったクライアントさんの言葉がとても印象的でした。「私は自分が何者なのかわからないんです。自分の好みもわからない。ワクワクすることをしなさいと人に言われても、そのワクワクすらわからないのです。私は、硬い土の中で殻も割らずにじっと眠り続けている種のようです」。
実はこのように語る方は少なくありません。自分がわからない。何をするために生まれてきたのか?どのように命を使っていけばいいのかわからない。このクライアントさんの場合もそうですが、幼少期に自分の好み、意思、望みなどをことごとく環境や親に否定され続けてきたことによって、自分の内側から湧きおこる純粋で直感的な欲求に蓋をしてしまったのです。「繰り返しの法則」によって、子どもたちは自分の欲求を出してはいけない!ということを学び、親に従うことで、その家庭のなかで生き残るすべを習得していきます。次第にその諦め癖は麻痺していき、欲求が湧きおこることすら封印してしまうのです。
この封印は頑丈で、無意識の領域に葬られ、大人になっても気づくことすらできない状態になっています。それでも生きづらさを感じ、心身共にどうにもならない状況に追い込まれた方は、ある意味でラッキーと言えるのかもしれません。気づいたときには、その封印を解くカギを手に握っているからです。しかしカギを握っているからといって、必ずしも大国の門を開けて、その先へと進むとも限りません。すべては自由意志に委ねられていて、最後の砦は得体の知れない恐怖に苛まれるものなのです。自分の内なる声に従って生きてこられなかった人が、種の殻を割り、芽を出す勇気を奮い立たせるには、信じる力、生きる力を回復させる時間も必要になります。焦らないことです。けれど決断することです。
小さな小さな種のままでいれば、安全だと感じるかもしれません。息苦しくても、リスクを負うことは避けたいと。確かに種はかたい殻に覆われていて、嵐がきて飛ばされようが、象に踏まれようが、壊れることはありません。いったん殻を破って繊細な芽を出したら、後戻りはできず、そのプロセスはさまざまな危険をはらんでいます。けれど種である以上、太陽に向かって発芽して、伸びていきたい!と希求するのです。だからこそ、種のままでいることのほうが、何十倍も苦しみを伴うものなのです。