カンボジアでは、2009年までで4万人を超える地雷&不発弾被害が出ています。カンボジアの街中にあるマーケットに行けば、しばしば物乞いをしている地雷生存者に出会います。今まで数多くの地雷生存者と会い、生活の支援などもしてきましたが、その中でも忘れられない地雷生存者がいます。彼女の名前はポン・ソック・リィさん。彼女と会ったのは、2005年3月のスタディツアーで訪問した、カンボジアのバッタンバン市にあるエマージェンシー病院でした。この病院はイタリアのNGOエマージェンシーが運営しており、もともとは戦争によって負傷した人たちを治療するために建てられた、外科を専門とする病院です。優秀な医者をはじめ多くの知識人が抹殺されたポル・ポト時代と、その後続く長い内戦の影響で、専門知識を持ち高度な治療ができる医者や、近代的な医療器具が極端に少ないカンボジアで、この病院では、戦争中に負傷した人や、戦争中に使われた爆発物や地雷などの残存物による事故、さらに最近では交通事故による患者などを主に治療しています。
3月と言えば、カンボジアでは乾季の最も暑い時期。このツアー中もとにかくかなり暑かったのを覚えています。ツアーで最初に訪れる首都プノンペンでの行程を終えた時点で、すでに軽い熱射病のような症状の人もいたほどです。この病院を訪問したのは、3月18日。バッタンバンに移動しても、相変わらずの暑さの中、病院を案内してもらいました。患者さんが長期間滞在するためのいくつかの病棟や食堂、きれいに整備された熱帯の植物や花が植わった庭。そして受付からX線検査室、輸血室、手術室などを案内してもらいながら、病院の説明を聞いていきました。
治療を受けている患者さんたちのいる病棟に入って行ったときのことです。その重苦しい雰囲気に胸が押しつぶされそうになりながら、患者さんたちの横たわるベッドの間を進んでいきます。この病院を訪れるのは、今回で3、4回目のことでしたが、この病棟だけはいつも感情を揺さぶられ、暑さとも冷や汗とも分からない汗をかきます。案内をしてくれていたプレジャさんというこの病院のスタッフが、あるベッドの前で立ち止りました。「この方の名前はポン・ソック・リィさん。2日前に地雷被害に遭って、ここで治療を受けています」というプレジャさんの説明に顔を向けると、若い女性がベッドに横たわっていました。そのすぐ横で若い男性が、彼女を帽子で煽いでいました。そして、私たちの近くに寄ってきた一人の年配の女性が、泣きながら私たちに訴えるように必死に話し出しました。その人は、ポン・ソック・リィさんのお母さんでした。お母さんの話によれば、ポン・ソック・リィさんは、隣人の畑の豆まきを手伝っているときに、畑に埋まっていた地雷を踏んでしまったそうです。包帯でぐるぐる巻きにされた左手、左脚、そしておそらく地雷を踏んだであろう右脚は、膝から下を手術で切断した後でした。一体どんな言葉をかければいいのか、全く思い浮かばない中、お母さんが隣で泣きながら話し続けています。その話を聞いていて、ハッとさせられました。彼女は、2か月前に結婚したばかりの新婚だったというのです。ベッドの横で、他にどうしようもなく彼女を帽子で煽いでいたのは、実は旦那さんだったのです。本当に言葉が出ませんでした。そして、結局本人には一言も言葉をかけることもできず、病棟を後にしました。
その後、ポン・ソック・リィさんには、一度も会っていませんが、地雷のまだ埋まる地域に行くたびに、いつもこの家族のことが頭に浮かびます。一番幸せだったはずの新婚2か月目の家族を襲った地雷事故の悲劇。地雷被害者は、決して地雷を踏んだ本人だけではありません。地雷で怪我をした人の家族、親戚、友人も悲しませてしまいます。そしてその近くに住む、「今度は自分が地雷の被害に遭うのではないか」と脅えて生活しなければならない人たちも、被害者です。今まで地雷事故に遭った4万人を超える人たちも、それぞれ家族や友人、愛する人たちがいたはずです。そう考えれば、地雷の本当の被害者は、その数倍、数十倍になるのかもしれません。愛する人をも悲しませてしまうのが地雷。もしあなたの愛する人が、地雷を踏んでしまったら・・・。そう想像すれば、地雷の脅威のない日本ですが、泣きじゃくりながら話してくれたお母さん、どうしようもなく呆然と帽子で煽いでいた旦那さん、そして地雷事故のショックでうつろに横たわるポン・ソック・リィさんたちの気持ちが、少しでも理解できるかもしれません。
江角泰(えずみ たい)
江角泰(えずみ たい)氏 NPO法人テラ・ルネッサンスのカンボジア事業担当者。 大学時代に、NGO地雷ゼロ宮崎のメンバーとして参加した「テラ・ルネッサンスのカンボジア・スタディツアー」が、テラルネッサンスとの出会い。 現在は、カンボジアにおける地雷問題に取り組む他、弊社が進めるラオス支援活動も担当中。 |