株式会社神石高原は、文字通り、広島県神石郡神石高原町にある会社です。のどかな里山には田畑が広がり、昔から農業の盛んな町でしたが、過疎・高齢化で有効活用されていない耕作地が増えました。これらを有効に生かすべく、「高原生姜」を生み出したのが、大田さんです。今回は、「高原生姜」の開発にかけた思いを伺いました。
全国のマルシェに足を運んで、「高原生姜」をはじめとした、神石高原の農産品の魅力を発信する大田さん。あわせて就農希望者がいれば、各地で面談もこなす
広島県の中東部に位置する神石高原町は、私の生まれた場所です。町は標高約500メートル前後に位置し、西側は岡山県と接しています。観光名所でいえば、国定公園帝釈峡は有名で、多くの人が訪れる場所です。帝釈峡の崖の上には、弊社の「高原生姜」の畑もあります。
2004年の市町村合併で、当時の神石郡内にあった4町村(油木町、神石町、豊松村、三和町)が合併して生まれたのが、神石高原町でした。私は神石町の出身で、1955年に小学校に上がったころは、1学年が33人の1クラスだけでした。しかし旧神石町には9つの小学校があって、1学年はそれぞれ20人から40人の1クラス構成でした。高校まで広島県の学校に通って、大学は隣県の山口大学農学部に進学、学位は東京大学農学部で授与されました。
その後は獣医師の免許を得て、動物用ワクチンの開発会社に入社しますが、1988年に鶏病のウイルス学と疫学分野の専門家として、国際協力事業団(JICA)の活動でマレーシアへ派遣されます。たとえば今冬も、西日本を中心に鳥インフルエンザの被害が出ていますが、そういったウイルス感染が起こらないようにサポートする仕事を担っていました。
帰国後は、地元・広島県福山市に本社を置く鶏卵生産会社に30年近く勤め、品質管理などの仕事にあたります。実は8年前に株式会社神石高原を立ち上げた際も、まだその企業の顧問を務めていて、二足の草鞋を履いての起業でした。全国に営業所があったため、東京、栃木に岐阜、いろんな場所で生活しました。
なぜ私が、神石高原で会社を立ち上げたかというと、「自分の故郷をなんとかせにゃいけん」と思ったからです。現在、神石高原町の小学校は統廃合がおこなわれ、9箇所あった学校は1校になっており、生徒数は10人を少し超えた程度です。ほかの地方公共団体と同じく、神石高原町では、過疎・高齢化が急速に進んでいます。
くわえて、耕作放棄地が大量に発生していました。50年前と比較すると、田や畑として耕作されている割合は、すでに半分以下です。地目は田や畑となっていても、多くは山林や原野に変わっています。2030年ごろになると、現在の耕作地はさらに半分、50年前と比較すると4分の1以下になると予測されているのです。
私はそういった耕作放棄地を引き取って、街を活性化させる農産品を生み出したいと考えました。そのためには50年前は当たり前だった「無農薬」「無化学肥料」「露地栽培」は必須なのです。化学肥料を使用すると、土壌は著しく劣化、土壌菌が繁殖できない土地になってしまいます。これではおいしい作物は育ちません。
思いついたのが、「高原生姜」でした。里山では、サルやイノシシなどの獣害から農作物を守らねばなりませんが、生姜は比較的、野生動物に荒らされません。そして高原生姜に付加価値をつけ、加工品にして出荷しようと考えました。シロップにすることを思いつきます。
日本のように一定程度の雨量がある場所だと、畑の土は雨にさらされて酸性(pH4~6)になりがちで、野菜づくりに適したpH6・0~6・5程度の土壌を確保するには、人工的な方法が必要です。しかし神石高原町は、石灰岩質のカルスト台地にあります。アルカリ性の石灰が混ざるため、土が酸性にならず、理想のpHに近い状態なのです。また内陸地で朝晩の寒暖差があるので、農作物も大きく育ちすぎない。そんな土壌と気候の利もあって、高原生姜は香り高く、また繊維もやわらかく育ちます。
株式会社神石高原は今年で創業9年目ですが、おかげさまで高原生姜のシロップは順調な売れ行きです。すべて自社工場で手づくり、鍋で煮込んでエキスを抽出しているため、注文に生産が追いつかないくらいです。シロップの材料を確保する目的で、現在は高原生姜自体の出荷を止めねばならないほどです。もちろん、すべて自社農園で栽培します。
自前の田畑も22ヘクタールに及び、高原生姜のほか、梅、エゴマ、カリン、シソ、ハヤトウリなども、無農薬、無化学肥料で育てています。地元の雇用創出にも貢献できました。また「農業を始めたい」と入社を希望して、県外から移ってくる人もいます。くわえて瀬戸内海の無人島・尾久比島で無農薬レモンを栽培する、「あびの島のレモンプロジェクト」を立ち上げました。アビ(広島県の鳥)にちなんだ命名です。
株式会社神石高原という社名は、創業した当時の町長が、「遠慮なく名乗りなさい!」と名付けてくれました。その期待に応えるべく、今後も農業を通して、地元の魅力を発信していきます。