自分とは何者か?
人種や民族や性別、多様な価値観、様々な障害を持つ人も含めて、人々の多様性を肯定的に見て認め尊重する〝ダイバーシティー〟についての続きです。
ヒプノセラピストとして活動していくなかで、クライアントみなさんのお話を聞いていてつくづく感じるのです。間違いなくほとんどの人が、少なからず否定的なアイデンティティーを持っています。アイデンティティーとは他者との関わりのなかで生まれる自己認識なので、人間関係においてどのような暗示を植え込まれてきてるのか。それによってどんなセルフイメージを抱いているのか。特に人格や信念体系の基礎が作られる幼少期においては、周囲の大人たちからの影響が多大です。無条件で在るがままの存在を認めてもらえた記憶の薄い子どもたちというのは、ネガティヴなアイデンティティーを潜在意識下に植え込まれています。
子どもたちの肯定的なアイデンティティーを育む社会環境を作ることは、私たち大人の責任です。アイデンティティーはダイバーシティとも関係しているからこそ、自分自身を認めることができない人は、本当の意味で他者を認めることなどできないはずなのです。
次男は発達障害というハンディキャップを抱えながら、必死にアイデンティティーを探し求めていました。「自分とは何者か? 」自己の存在を明確にできるその主体的で自己肯定的な答えをずっと探し求めていました。彼は幸いです。若くしてその疑問を抱くことができたのですから。そして、それを見つけることができたのですから。
ゲームでは得られない かけがえのないもの
彼が見つけたアイデンディティーは人種、性別、国籍を超え、命の元となるような、魂を輝かせるために持って生まれた証のようなもののことでした。
「僕はこれまでいろいろトランスフォームしてきたけれど、最後はアキトに戻っていくんだよ。アキトがアキトに気づくまではロボットのようだった。人間性を失くしていたことに気づいたんだ」
「それは何がきっかけだったの?」
「映画だよ!! 東日本大震災があって、家族で1時間の節電を決めたでしょ。そこで僕はWiiをやめて映画をたくさん観るようになった。初めて一人で映画を観にいって、予告編を観ていたらまた次も行きたくなって……。そのとき、僕は〝見つけた!!〟と思ったんだ」
ハワイで暮らしているころ、我が家にはテレビがありませんでした。正確にいえばテレビはあったもののケーブルではなく、田舎暮らしの我が家にはコーラウ山脈が邪魔をして電波が届かず番組を見ることはできませんでした。
日本へ移り住んで子どもたちが小学校高学年になったころ、手持ちサイズのゲームではなく、テレビの大きな画面で遊べるゲームWiiのみ、遊ぶ時間を約束して購入しました。
ゲームはそれなりに楽しい時間だったと本人も言っています。しかし、ゲームに時間と意識を奪われ続けていた時には得られなかったかけがえのないものに巡り合うことができたのです。
それを「見つけた!!」というのです。「何を見つけた!! と思ったの?」
「僕だよ、アキトだよ、本当の自分を見つけた!と、そう思ったんだよ。目の前の銀幕に僕がいたんだ!映画は僕みたいなものなんだよ。映画=アキト。本を読んだり、文章を書いたり、計算することは難しいけど、映画は理解できた。言葉もたくさん覚えた」
学習障害をもつ彼は、心底から興味がわかないものは頭に入っていかないのです。しかし映画という対象に巡り合えて、彼の言語力はみるみる発達していきました。役者のセリフの間合いから、空気を読むということも感じ取れるようになっていきました。コミュニケーション能力がぐんとアップしたのも映画に夢中になり始めてからです。