先月号では言葉にする効果についてお話ししました。言葉はパワフルですが、限界もあります。同じ日本語で話していても理解し合えない、すれ違う、ということは日常茶飯事ではないでしょうか? 一方、多くを語らなくても通じ合うこともありますね。この違いはなんなのでしょうか?
その問いに対する強い関心と探究心に火が点いたのは、私が中学3年生に上がる14歳の春。アメリカで短期ホームステイをしたときのことです。
言葉を超えたもの
私を迎え入れてくれたのは、私と1歳違いの陽気で活発な一人娘さん(ステイシー)がいるホストファミリーでした。1週間お世話になる間、ステイシーと私は彼女の部屋で共に眠り、通学し、帰宅するとお母さんが用意したスナックをつまみ、夜はまた同じ部屋で一緒に眠る。そんな風にまるで姉妹のように過ごしました。辞書を片手に片言の会話でしたが。
1週間という滞在はあっという間。別れのときがやって来ました。別れの前夜、いつも通りにステイシーと私は「グッドナイト」と声を掛け合い、ベッドに潜り込みましたが、私は寝付けません。明日の別れを思うと、どうしようもなく寂しくて、悲しくて、涙がこぼれて止まらなかったのです。
腕を伸ばせば触れられるほど近くに眠っているステイシーに、気づかれないよう息を潜めていると、「グスッ」という音が。普段は元気一杯なステイシーでしたが、彼女も別れが悲しくて涙を堪えていたのです。
お互い、泣いていることには気づいていましたが、そこに言葉は必要ありませんでした。大切な友との別れが切なくてたまらないことは、言葉にしなくても痛いほど伝わっていましたから。シーンとした夜更けの部屋には、私たち二人の鼻をすすり上げ、ときにしゃくりをあげる音が響いていました。
あれからまる36年。ステイシーと私はいまも互いを姉妹と呼び合います。絆は強く、つい先日も体調の悪い私の父を思いやるメッセージが、ステイシーから届いたところでした。あの夜、互いの思いを言葉ではなく、涙でわかち合ったからこそ、この友情は今も続いていると私は思っています。
そんな経験から、私は「人はわかり合える」「たとえ違いがあろうとも。違いを超えて、わかりあえる」と考えるようになりました。
言葉や文化・国籍や育った背景が違えども、目に見える肌や瞳の色が異なっても、私たち人間には感情があります。「感情は違いを超える」、そう思えたのです。言葉が伝わらなかったとしても、感情は伝わります。
イキイキした感覚
感情はとてもシンプルで純粋なものです。嬉しい、悲しい、楽しい、寂しい、怖い、ワクワクなど。「いま、この瞬間、その人の内側にあるイキイキした感覚」。それが感情の源です。感情は体の中に宿っているのです。
その人の内側で「イキイキしている感覚」こそが、言葉以上に相手や周りに伝わり、動かすということを、じつは私たちは知っているのではないでしょうか。思わずもらい泣きしたり、誰かの大笑いにつられて笑ったり。または、内容はよくわからないけれど、一生懸命語る姿に思わず応援したくなったなど、言葉を超えたなにかが伝わって動かされたという体験は誰でも一度や二度、いいえ、もっとあると思います。
もし、言葉の限界にぶつかったら、一度立ち止まり深呼吸してから、こう自分に問いかけてみませんか? 「今、私の内側でイキイキしている感覚はなんだろう?」と。きっとあなたの感情という真実に触れることでしょう。
最後に、私の師匠 エドウィン・コパードが遺した言葉で締めくくります。
「その人の本当の感情に触れたとき、その人を愛さずにはいられない」。