「その人本来の自然な声を取り戻すと、いろんなことがうまくいき始める」。私の師匠エドウィン・コパードはつねづねそう語っていました。そして、誰でもその人本来の自然な声を取り戻し、自分のなかに眠る力を開花できるよう直接指導をおこなっていました。ちなみに、エドウィンは、身体から湧き出る自然な声(ボディヴォイス)と、社会に適合するために習得した声(マインドヴォイス)は、同じ声でもまったく別の質のものであると明確に区別していました。
そんなエドウィンから受けた指導のなかでも生涯忘れられない経験があります。それは16年前、カナダでエドウィンの指示に従い、お気に入りの曲を歌い出してまもなくのことでした。
聴くなと言われても
「美和、自分の声を聴いてはだめだ!」「えっ? えええ?」唐突なエドウィンの指摘に私は完全に混乱していました。自分の声を聴いていると突然言われても、まったく自覚のない私はにわかには信じられません。聴いているつもりはないと主張しても、エドウィンは「さりげないが、たしかに美和は自分の声に耳を傾けている。聴くな」の一点張り。自覚のないことは、変えようがありません。途方に暮れてしまいました。
なにをどうすればよいのか具体的な手立ても見当たらないまま、もう一度歌い出しますが、当然ながら再び指摘が飛んできます。「自分の声を聴いている!」「聴きながら、歌い方や声を微調整している」。もうこうなると訳がわかりません。ふてくされ気味に「やりながら改善して、なにが悪いの?」と訴える私に、エドウィンはそっと静かに説いてくれました。「自分の声を聴くことで、君は自分を監視しているのだと思うのだよ。失敗しないようにね」
この瞬間、私はエドウィンの指摘の意味がようやくわかりました。「たしかに私は、他者との会話のなかでも同じことをやっている!」。そう気づいたのです。当時の私は、相手の表情や顔色をよく観察しながら会話を進めていました。相手の反応によって、自分の発言を調整していたのです。コミュニケーションにおいて、それは当たり前の行為と思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。
本音は潤滑剤
歌のときと同じです。私は自分の話している内容や声のトーンに注意深く耳を傾け、失敗しないようにコントロールしていたのです。相手の気分を損ねないように、傷つけないように、対立しないようにと精一杯、神経をすり減らしながら。それも、円満な関係性を大切にしたかったからなのだとは思います。しかしながら、過剰な自己監視(セルフモニタリング)は自分を疲弊させますし、自分の本心を見失わせます。本音を語れなくなるということは、本音の付き合いが築けなくなるということにもなりかねません。
当時の私は、人と話すとよく疲れを感じていました。自分が本当はどうしていきたいのかもよく見えず、自分の言いたいことを我慢する場面もまだ多くありました。本音を語ると関係性が壊れる気がして怖かったのでしょう。そんな私も、いまは本音で語り合える関係性に囲まれています。プライベートでも仕事でも。取り繕っていたときよりも、人間関係がうんと楽で、円滑で、幸せなものになりました。
理性で自分の本心を制御しているとき、その人の本音はかき消されてしまいます。身体から湧き出る声(ボディヴォイス)は、まさにあなたの本音の源。理性は私たちを守ろうと、私たちの本音を監視抑制し、代わりに社会に適合するために習得した声(マインドヴォイス)で話そうとするかもしれません。そんな自分に気づいたら、理性に感謝を伝え、身体から湧き出す声に耳を傾けてみることをお勧めします。