「こんなこと言ったら、どう思われるだろう?」
そんな不安がよぎって、言おうとしたことを止めた。本音を心のポケットに隠した。
「場の空気を壊したくない」「空気の読めない人間だと思われたくない」
だから、周囲に合わせて、当たり障りのない話に変えた。自分の本音は呑み込んだ。本当は深い話をしたいのに。
そんな経験はありませんか? ない人の方が少ないかもしれませんね。ただし、慢性的な疲れを感じるほどならば、それは心理学・医学用語でいう「過剰適応」かもしれません。過剰適応とは、「周囲に合わせるため、自分の考えや行動を過度に変えようと無理をしている状態」を指します。
疲れるほど合わせてしまう人たち
じつは、私もそんな一人でした。幼少期から30代半ばまで、空気を読み、その場の雰囲気を壊さぬように、誰かを不快にしたり傷つけたりしないようにと、自分の発言を随分とコントロールしていました。自分の考えをきっぱり伝える側面もありましたが、一方で、相手の表情や反応に敏感で、察知した相手のわずかな表情や声色の変化をもとに相手の心中を推察し、自分の発言を無意識に調整し続けていました。そのため、「人と会うとひどく疲れる」と、母にはこぼすほどでした。無理をして自分を変えているのですから、当然だと今ならよくわかるのですが、当時の私はまったく無自覚でした。
こうした話は、私のクライアントからもよく聞きます。たとえば、「相手に気持ちよく話してもらいたいけど、どんな質問を言えばいいのかわからなくて、会話に積極的になれない」、「意見が違う相手には、つい合わせてしまうか、避けてしまって、本音の関係が築けない」など、調和的な関係を望んでいるのに、対人不安や緊張を感じ、人と距離を取っている人は少なくありません。本当は人と心を交わしたい、あたたかい関係を築きたいと願っていますから、じつは悲しく寂しい思いをしています。
過剰適応の真相
では、こうした過剰適応の根っこはなんなのでしょうか? 私の場合、17年前に、声をつかった内観法を始めるようになり、自分のなかの「もう一人の自分」の存在に気づくようになりました。それは「守る」自分。心無い批判、勝手な評価判断、悲しい誤解や争いから守り、傷つかないように、心がくじけないように、私を守ろうとしてくれていたもう一人の自分でした。幼いころの私には必要なことで、「周囲に合わせことで、悲しい出来事を避ける」方法を選んだのでしょう。方法はなんであれ、過剰適応の根っこは「自分を守ること」だったのです。
ボイス内観法を試した相談者の方々も、同じように「もう一人の自分」と再会を果たします。精一杯、無理をしてでも自分を守ってくれていた存在を知り、安心感と感謝で涙する場面に立ち会うこともよくあります。そして、徐々に、自分の内側深くにある「純粋さ」「無防備さ」「繊細さ」といった、柔らかな部分にも触れ、自分が愛おしくなります。守るべき「弱さ」だった部分が、「大切にしたいもの」という自分の軸だったことに気づき、受け容れていくという変化が起きます。
このように、自分への深い洞察を得ると、自分に対して共感的で血の通った関係を築くことができます。そして、自分をまるっと丸ごと受容できるようになるのです。すると、不完全な自分が好きになり、それにともない、人とは愛おしい存在だと心から思えるようになっていく。そして他者を支援する余裕まで生まれるようになります。もし、あなたも過剰適応で疲れているなら、もう一人の自分にそっと感謝してみるのもいいですね。