きのくに子どもの村通信より 学校づくりのこぼれ話(9)教師の条件
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
白鳥蘆花に入る
下村湖人の『次郎物語』の中の言葉である。真っ白なアシの原に一羽の白鳥が舞い降りる。白鳥の姿はやがて目立たなくなる。しかし白鳥の降りた付近のアシが波打っている。 このひとことで作者は、よい学校のよい教師の姿を語っている。よい学校では、子どもたちが自発的に動いている。教師は目立たない。よく見ないと姿が見えない。声もほとんど聞こえない。
きのくにでは、見学客や取材の人からよく「先生はどこ?」とか「見分けがつかない」とかいわれる。たしかに「オレは教師だ。ついて来い。」と叫ぶタイプの教師はいない。
活動が子どもを誘う
教師が大声で子どもを動かさなくても、子どもが自ら動く。日本保育学会の初代会長の倉橋惣三は、こういう保育を誘導保育と名付けた。誘導尋問のように上手にだましてなにかさせるのとは違う。
誘導保育とは、教師によって準備された活動や環境が子どもの心を捉え、子どもを夢中にさせる保育である。大切なのは教師の権威ではない。巧妙な話術でもない。もちろん賞や罰などの外的な力ではない。誘導保育は、別の言葉でいえば間接的指導である。デューイは次のようにいっている。
「子どもを指導するのは教師ではない。活動そのものだ。」
子どもに迎合する教師
子どもを無理に引っぱってはいけない。大声を出すのは下手な教師だ。それはわかっていても、子どもが動いてくれない。そういう時に教師がはまりやすい落とし穴がある。子どもの機嫌をとることだ。
かつてある自由学校で、小さい子に人気のある男性教師がいた。しかし彼の人気の秘密はアメとビスケットだった。彼の部屋へ行くとご馳走が出るのだ。しかし怒鳴る教師と同様、甘い教師も子どもから内心ではバカにされている。この教師もまもなく自己嫌悪におちいって学園を去っていった。
外的権威にたよる教師
ニイルは、教員の採用の際にこう尋ねたそうだ。
「君は子どもからバカと呼ばれたらどう感じるかね。」
生意気な口をきく子にムカッとしていては、サマーヒルの教師はつとまらない。子どもの機嫌をとる人も、権威にたよる者も、どちらも自由学校のダメ教師である。
権威とは何か。辞書には「人を従わせる力」とある。問題は何によって従わせるかだ。教師という地位によって子どもを動かそうとするか。それとも子どもの心を引きつける活動によって子どもが動くのか。
前者は、教師その人の外によりどころを置く。エーリッヒ・フロムのいう外的権威だ。このタイプの権威者は、権威の保持のためにさまざまな形式や儀式を編み出す。身なりをととのえ、「先生」と呼ばれ、先生ことばをつかい、試験で脅し、声を荒げ、厳粛な式を大事にする。それほど強くなれない者は、アメとビスケットで子どもの機嫌をとる。まじめで熱心であっても、どちらも子どもからは好かれない不幸な教師だ。
幸福な教師はよく笑う
「最もよい教師は子どもと共によく笑う。最もよくない教師は子どもを笑う。」
ニイルのことばである。外的権威にたよらない教師は、子どもと活動を共にし、自分の知識と経験と工夫が、子どもの成長に一役かうという大きな喜びを味わう。子どもが笑う。大人も笑う。これがよい学校のしるしだ。
子どもとともに笑うために
子ども好きでは不十分
子どもと共に笑う教師は子どもが大好きだ。しかし子ども好きにも二種類ある。権威主義の子ども好きは、ペットをかわいがるように子どもに接する。自己中心的だ。子どもと共に笑う子ども好きは、謙虚に子どもと共に歩む。そして子どもと共に成長する自分が好きだ。
子どもと共に成長する教師は固定観念や固い理想にとらわれない。学校や教育にまつわる数々の常識からも自由だ。心がやわらかい。と同時に自分の内面についても気付いていて、しかもその自分を肯定している。つまり心理的に解放されている。
教師に自由とゆとりを
子どもと共に成長する教師は、技術を磨かなくてはならない。実践を振り返ったり、本を読んだり、研修に出たりしなくてはいけない。それには時間のゆとりが必要だ。魅力的な活動の準備と、そのための研究には、時間とある程度の経済的裏づけが要るのだ。
近年は何かに付けて学校教師への風当たりがきつい。保守派の学者やにわか教育評論家が、現場の実情も知らずに教師を無能呼ばわりする。教員の評価だの、教員免許の更新だの、とやかましい。しかしこういう管理強化策は、学校からますます笑いを失わせるだけだ。学校を活性化するには、教師に、何をどのように教えるかの自由、そして時間とお金のゆとりを認めるのが一番なのだ。
よい教師は集まる
ところで学園に見える見学者がよく「子どもが元気だが、先生も生き生きとしている。」という。「どのようにして集めたのですか」と尋ねる人も少なくない。私の答えはこうだ。
「子どもと大人が共に笑う学校には、集めなくても素敵な先生が自然に集まるのです。」