先月号では、幸せな自分を手に入れるためには、まず「自分は幸せである」という前提に立ち、目の前にいる人に幸せを「あげる」必要がある。
というお話をしました。
では、具体的にどうすればよいのでしょうか?
「嫌いな人」の幸せを祈る
実は過去のコラムでも少し紹介したことがあるのですが、上座部仏教※でおこなわれる瞑想法の一つである「慈悲の瞑想」が、とても効果的です。
全文をご紹介するとかなり長くなってしまいますので、ぜひインターネットで検索して確認していただきたいのですが、基本的には「自分自身」「身近な存在」「生きとし生けるもの」の幸せを祈るという瞑想です。
そのなかに「私の嫌いな生命も幸せでありますように」「私を嫌っている生命も幸せでありますように」という部分があります。
はじめてこの瞑想法を知ったとき、何度もチャレンジしてみたのですが、どうしても「私が嫌いな人」「私を嫌っている人」に対して幸せを祈ることが苦しくて仕方がありませんでした。
そのときはあまり続けることはできなかったのですが、後に、心の仕組みが徐々にわかってきたとき、これを言わないのはもったいないと思えるようになりました。
お金がほしいと思う人が、本当のお金持ちではないように、幸せになりたいと思っている人は、「今」幸せを感じていません。
本当にお金持ちであれば、「困っているなら、お金あげるよ」と思うことができるように、幸せな状態になるためには、逆転の発想で、誰かの幸せを祈ってあげると、自分が幸せになれます。
それができたとき、自我(エゴ、思考)は、「人に幸せをあげられるくらい自分には幸せがあるんだ」と勘違いしてくれます。
そして、その勘違いは、勘違いではなく本当の幸せに変えられるのです。
以前からお伝えしているように「幸せだなぁ」と言ってから、その後に「そういえば……」と言うと、頭はその後に続く言葉を自然と考えてくれます。
例えば「幸せだなぁ。
そういえば、今日のご飯は美味しかった」とか「そういえば、仕事もあるし、家族もいる」「そういえば、着る服があって住む家がある」「そういえば、お花が綺麗だった」などなど、幸せのタネは無限に出てきます。
生きている限り、幸せがひとつもないという人は一人もいません。
ただ幸せに気づけていないときが多いだけです。
当たり前の幸せ(すでに持っているもの)は、自分の当然の権利のように感じて、そのことを幸せだと感じられないようになっているだけです。
「私が嫌いな人が幸せになりますように」「私を嫌っている人が幸せになりますように」と繰り返しつぶやいていると、もともと自分には幸せがあるし、さらに人に幸せをあげられるくらい、たくさんの幸せを持っているという気分になることができます。
「嫌い」のなかにヒントがある
「生きとし生けるものが幸せになりますように」でも十分効果はありますが、「自分が嫌いな人・自分を嫌っている人」とあえて限定するのは、「嫌い」という認識のなかに、「こうあるべき」などのこだわりが含まれるためです。
嫌いな人の幸せを祈ることで、そのこだわりを手放すことにもつながっています。
実際に、その「嫌いな人・自分を嫌っている人」が幸せになるかどうかは問題ではなく、自分が嫌だと思う人を利用して、自分が幸せなってしまうという方法です。
人の幸せを祈る天使のような瞑想法ですが、実は自分が幸せになるためなら、どんなことでもやるぞ!というなんとも強欲でご利益がいっぱい詰まった慈悲の瞑想、ぜひ、実践してみてください。
※仏教の分類の一つ。
大乗仏教に対して「小乗仏教」と称されることもあるが不適切とされる。