過去の自分を癒やすことが、現在の苦しさを解放することだ、という気づきを得てから、なんとかして患者さんに簡単でわかりやすい方法がないか、頭のなかで試行錯誤しています。
実際にやってみて効果が期待できそうな祈りの言葉を紹介します。田坂広志氏の『運気を磨く』という著書の最後に、究極の祈りの技法として紹介されていた「導きたまえ」の一言です。すべてを、大いなるなにかにゆだね託している祈り、と説明されていました。田坂氏は東大卒の工学博士であり実業家であり大学教授でもあるという多才な方で、心理学や哲学にも造詣が深い先生です。御一読をお勧めします。実は、この本を読んで試してみたものの違和感があり、気になりつつも放置していました。しっくりこない原因は、だれに祈っているのか?という疑問が湧いてくることでした。
究極の世界観として自他一体という言葉があります。自分も他人も同じ一つのもの。さらに神人合一や一切衆生悉有仏性という境地があります。生きとし生けるものはみな仏性(仏陀になる可能性)があるということ。自分と自分以外を分けることが、苦しみの出発点だと考えると、なにかに祈ることは、自分以外の存在を作り出す行為ではないかという疑問が湧いたのです。
それでも、あえて祈りの言葉を繰り返し唱えてみて気づきました。自他一体や神人合一という言葉は知っていても、今の自分にはまだまだ強い自我があるということ。今あるその自我を認めて、あえてなにかに祈ってもいいかも、ということでした。究極の世界観と自分をつなげてくれる対象に祈りましょう。ハイヤーセルフ、癒やされたインナーチャイルド、聖霊(ホーリースピリット)、宇宙のエネルギー、天使など、自分に縁がありそうな存在を想定すると良いようです。
しっくりくる言葉に変えてみる
実践していくなかで、少し言葉を変えてみました。今しっくりくるのは「やさしくみちびいてね」です。
人生ハードモードになるのは自我が抵抗します。導かれた先が、とても大変な状況かもしれないと感じてしまうと、祈ることが続けられなくなります。それを和らげるため、「優しく」導いてほしいと思いました。また、ちゃんと気づけるように、わかりやすく簡単に教えてくださいという意味で「易しく」という意味も込めました。「〜たまえ」という言葉は、普段使い慣れませんし、祈りの対象との距離を縮めたいので「導いてね」と変えました。違和感がなくなったら「導きたまえ」に戻すのもいいかもしれません。
この言葉を唱え続けていると、自我が消える瞬間がありました。自我はいつも欲張りで、こうなってほしいなぁ、あれは嫌だなぁという思考が湧きあがります。導いてもらうためには、その欲を捨てる必要があります。導かれてたどり着くのは、自我の欲求を満たすことではありません。全部明け渡すという境地です。まさにすべてを大いなるなにかにゆだね託す祈りだと、気づくことができました。「すべてをゆだね託す」という言葉から連想したのは「絶対他力」。絶対他力を説いた親鸞上人は、阿弥陀如来の本願(阿弥陀様がすべての人を絶対幸福にすると誓った約束)にゆだねることを実践されました。その本願を信じ切って、完全に自我のはからいを捨てたとき、親鸞上人も悟ることができました。
また、以前から紹介しているホ・オポノポノですが、「ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛しています」は、「導きに気づかずごめんなさい、許してください、ずっと導いてくれていたんですね。ありがとう、愛しています」という意味でもあったと気づきました。祈りの邪魔になるのが、自分のプライドや傲慢さです。謙虚な気持ちで唱えると、フッと自我が消える瞬間がやってきます。