生きているとだれしも、面倒な家事や仕事、人間関係のいざこざ、家族や健康問題、つらい現実に出合います。人生はスムーズに幸せになれるようにはできていないようです。
しかし、幸せは感じ方で変化するものでもあります。もし幸せしかない人生だとしたら、人は幸せを感じることができるでしょうか? 幸せな状態が当たり前になってしまうと、それはすでに幸せではないのかもしれません。もっと別の幸せはないか?と探求が始まると、現状を否定していることになりますので、あまり幸せではない状態です。幸せという漢字の成り立ちが、手かせ(手錠)の形からという話を聞いたことがあります。古代中国で生き埋めにしたり、八つ裂きにしたりするような厳しい罰が当たり前の時代、手かせだけの刑罰は「命が取られなくてよかった、幸せだ」と感じたということです(諸説あるそうです)。
絶対的にいつも幸せという状態はありえない(かもしれません)。今感じている幸せもいつまでも続くことはなく、逆に今の不幸もいつまでも続くものでもありません。幸福も不幸も、終わるときがきます。「禍福は糾える縄の如し」です。超訳すると「幸せも不幸も表裏一体ですよ。人はネガティブなことに囚われやすいけれど、その裏側にあるポジティブにも気づきましょう。気づいたからといってネガティブがなくなるのではなく、そこになにか意味があるのかもしれません」ということだと思います。ネガティブとポジティブの両方があることに気づくこと自体、その物事を一歩引いて観ているという状態です。ネガティブを避けたり、逃れようとすることは、自分の行動がネガティブに支配されている状態です。ネガティブにもなにかしら意味があると思ってみると、ネガティブの支配から抜け出しやすくなります。
ネガティブな出来事も、時間がたって振り返ってみれば、「あの出来事のおかげでなにか学びがあった」と思えます。そのような出来事から逃げようと思えるだけでも成長です。そういう意味で、自分の人生のストーリー上、なに一つ無意味なものはなく、すべてが学びだと捉えることができます。
以上のようなことを考えていたときに思い浮かんだ言葉を紹介します。
「あれもこれもすべて、私の愛おしい人生の瞬間」
どんな出来事も自分の人生にとって大切な経験です。もし自分が生まれてきたくてこの世界に誕生してきたとしたら、すべての出来事が、得たいと切望してきた経験かもしれません。現在の自分の意識状態では、否定的な意味しか感じ取れなかったとしても、五年後、十年後の自分、もしかすると死の間際の自分にとっては、その出来事のお陰でなにか得られたことがあったと感じることができるかもしれません。
この言葉を何度も唱えていると、少し心が落ち着きます。リラックスすることで回復力が高まります。僕は最近この言葉を唱えながら寝るようにしています。眠れないときに繰り返しているといつの間にか眠りについています。
この言葉を思いついたとき、ある心境になったのを思い出しました。もしこの世界が明日なくなってしまうなら、もし自分の命が今日一日で終わるとしたら……。それをリアルにイメージしたとき、毎日当たり前に見ている光景も今日で見納めだと思い、目の前の光景をすべて目に焼きつけたくなりました。その瞬間、世界の輝きが少し増したような、キラキラ輝いて見えたような気がしました。世界全体が愛おしい場所だと感じられました。死をリアルに感じること(メメント・モリ)で命が輝くのだなぁと実感しました。
みなさんも「あれもこれもすべて、私の愛おしい人生の瞬間」と唱えてみましょう。もし抵抗がなければ自分の死をイメージしてみましょう。命が輝き、幸福と不幸を超越した世界が垣間見えるかもしれません。